明晰夢工房

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【感想】小林昌平『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』は思想書のダイジェストとしては使える

 

その悩み、哲学者がすでに答えを出しています

その悩み、哲学者がすでに答えを出しています

 

 

アリストテレスベルクソン、シッダールタ、ラカンハンナ・アーレントなどなど古今の哲学者の思想でさまざまな悩みを解決できますよ、というコンセプトの本。竹田青嗣はよく「哲学は悩みの解決に役立つ」と著書の中で書いているが、彼の本を読んでもあまり役立つように思えなかったので(こちらの理解力の問題もあるだろうが)、もっとかみ砕いている感じのこの本を手に取ってみた。

 

さて、この本の「実用性」はどうだろうか。以下、印象に残った個所についていくつか取りあげてみる。

 

まずは「やりたいことがあるが、行動に移す勇気がない」という悩みについてのデカルトの答え。この本では『方法序説』の「私が取り組む難しい問題のそれぞれを、できるかぎり多くの、しかもそれを最もうまく解くために要求されるだけの数の小さなパーツに分割すること」という思考法を引用しつつ、「困難は分割せよ」と説く。大きな目標を掲げたら、それを実行可能な小さなサブゴールに分ければいいということだ。

これ自体はいろいろなライフハック本に書いてあることなので実用性はあるだろう。デカルトが学問の再構築のために考え出した「分割」のノウハウを、ここでは行動に応用している。それなりに納得できる話ではあるものの、「やりたいことを実現しようと思う我々のすべての行動の裏に、デカルト的思考が憑依しているべき」というこの本の主張は少々大げさでは、と思わなくもない。

 

次いで、「自分の顔が醜い」という悩みについてのサルトルの回答を見てみる。ここではサルトルの実存哲学がかんたんに説明されている。人間は他の動物と違い、先天的に決められた「生きる目的」が存在しない。だから好きに生きることができるし、その状態をサルトルは「自由に呪われている」と表現した。

この哲学を顔の悩みに応用するなら、容姿がよくなくても恋愛や結婚ができないとあらかじめ決められているわけではないのだから、他の部分を磨いてなりたい自分に近づけばいいのだ、ということになる。自分がどういう存在であるかは自分で決めていいということだ。まあそうかなと思うけれども、結論からいえば「容姿がだめなら他の部分を磨きましょう」というごく普通の人生相談であって、それを実存哲学風に味付けしてるだけなのでは?という気もしてくる。

ちなみに、この本ではサルトルは身長や斜視などにコンプレックスを抱えていて、それでもモテるために哲学を学んでインテリになったと書かれているのだが、ほんとうだろうか。ついでに言うと、個人の行動は結局世界の構造の中で決定づけられているというレヴィ=ストロースによるサルトル批判もこの本の注で紹介されているが、それを言ったらこの回答の意味がなくなってしまうのでは、とも思う(哲学史の勉強としては役に立つとしても)。

 

次に、「他人から認められたい、ちやほやされたい」という悩みへの回答を読んでみる。これに答えるのはジャック・ラカンだ。ラカンによれば、「小文字の他者(=現実の個人)」に認めらるだけでは、人はほんとうに承認欲求を満足させることはできないのだという。ブログをバズらせたり、インスタ映えのする写真を撮れてもダメなのだ。結局、大文字の他者に認められる実感が得られなくてはいけない。「大文字の他者」とは象徴的な大きな他者のことであり、神もここに入るが、神なき現代人にとっては「大きな権威」くらいのものになるらしい。大義だとか、後世の人びとの評価も「大文字の他者」になる。

この本では、「大文字の他者」に認められることをめざした著名人として、伊藤若冲を挙げている。「具眼の士を千年俟つ」といってひたすら画業に打ち込んだ若冲が世に認められたのは没後200年くらいであって、これこそがうわべだけの相互承認を超え、長期的な価値を生み出した例なのだという。

言ってることは正しいかもしれないが、これなどは実行できる人がかなり限られる気がするし、実用性という点ではこの回答には疑問を持ってしまう。多くの人は「小文字の他者」からの承認に餓えたりそれなりに満たされたりしつつ、どうにかやっていくしかないのではないだろうか。この回答は「共同体に貢献することで幸せになれる」というアドラー心理学の話とも重なるところがあるように思うが、こちらも誰にでも実行できるかという点にやはり疑問を持つ。立派なことをしようとするのはいいのだが、ちやほやされたくて苦しいのならまずSNSを覗く回数を減らしたほうがいいのではないか。自分以外の人がちやほやされているのを見るから悩みが発生するのだし。

 

そして、「不倫がやめられない」という悩みへの回答を出しているのはカント。この種の悩みに答えるのに適切な人選なのだろうかと疑問には思うものの、とりあえず読みすすめていくとカントの定言命法が紹介される。サンデル先生の本にも出てくる「あなたの意志の根本方針が、つねに同時に、普遍的立法の原理となるよう行動することだ」である。すべての人がそれをやっても問題ないのか、ということだが、この判断基準で不倫を普遍化できないと考えるならやめるべきだ、ということになる。欲望に流されず、あなたの中の道徳法則に従いましょうということだ。

理屈はそうだが、べき論で不倫がやめられるだろうか。不倫がやめられないという人は、不倫を普遍化していいわけがないことくらい百も承知で、だからこそ悩んでいるんじゃないのか……と思っているとそこは著者もわきまえていて、この話の後に「別解」として親鸞の回答も用意されている。すなわち、他力に身をゆだねよ。自力でできることなど限られているので、阿弥陀仏の空と縁起の世界に煩悩深い身をまかせるしかないとのことなのだが、正直この回答で大丈夫なのかという気もする。結局物事はなるようにしかならないのだ、と言われればそうかもしれないけれども。

 

 ちょっと文句が多くなってしまったが、良いと思える回答もある。この本ではアリストテレスの言葉として、『ニコマコス倫理学』から『快楽は本来、「活動(エネルゲイア)」にほかならず、それ自身目的なのである』という一節を引用している。これは、今自分が楽しく充実している状態がそのまま「なしとげた成果」になるということで、今この瞬間の行為に没頭することで、いつの間にかその行為自体が楽しくなるという状態を指している。

将来の目的をいったん脇に置き、今この場を楽しみつくすことで、結果的に高いパフォーマンスを発揮するのはよくあることだ。なにかに没頭することで、もやもやとした頭の中の不安を振り払うことができる。この「エネルゲイア的な行為」をすることは「将来食べていけるか不安」という悩みに対して推奨されているものだが、これはむしろ「他人から認められたい、ちやほやされたい」という悩みへの回答で紹介された方がよかったのではないだろうか。人に認められたいという人は人目ばかり気にして今に没頭できていないのだから、結果を度外視して何かに没頭することそれ自体を快楽とできればこの悩みは解決できる。そして没頭したことで高いパフォーマンスを維持し、よい結果が出せれば結局人から認められるかもしれない。

 

saavedra.hatenablog.com

全体を通してみると、この本は実用性という部分ではやや疑問符はつく。古今東西の哲学者が束になっても鴻上尚史一人にかなわないのか、とは思うものの、もともとこの人たちは人生相談が本業ではないのだから仕方がない。そもそもこの本は悩み相談の体裁で古今の哲学者の思想をダイジェストで紹介するものだろうから、あまり実用性に文句を言ってもしかたがない。これはあくまで思想の入門書として読んだ方がいいのだろう。そういう目で見ると、巻末の参考文献はかなり充実しているし、さまざまな思想の入り口として役立ちそうな一冊ではある。