明晰夢工房

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明智光秀「仏のうそを方便といい、武士のうそを武略という」←なぜここだけ抜き出すのか

 

武士の日本史 (岩波新書)

武士の日本史 (岩波新書)

 

 

明智光秀が「仏のうそを方便と云い、武士のうそを武略と云う」と公言したという話が『老人雑話』には載っている。このことが『武士の日本史』の4章で紹介されているのだが、この話は武士は名利を求めるものだ、ということを述べる文脈で出てきている。名とは名誉、利とは利益のことだが、武士が利益を求めるのは当然という話がこの章にはたくさん出ていて、朝倉宗滴話記の「武者は犬と言われようが、畜生と言われようが、勝つことが基本」という話も紹介されている。武士とはエゴの塊であり、光秀もそう認識していたのだという話である。

 

ただ、光秀のこの台詞をここだけ抜き出すのは少々アンフェアな印象がある。この部分だけ読むと、光秀が武士とは嘘をつくものだと開き直っているように思えるからだ。だがこの台詞には、「これを見れば、土地百姓は可愛きことなり」という台詞が続く。僧侶も武士も嘘をつくのに、百姓が年貢をごまかすくらいかわいいものではないか、ということである。つまり、これは光秀のいい人ぶりを示す台詞なのだ。

 

『老人雑話』は江戸時代初期に書かれたものなので、のこのエピソードの真偽はわからないが、光秀はこういうことを言いそうな人だというイメージを持たれていたのだろう。一方、フロイスは『日本史』のなかで、光秀のことを謀略が得意で狡猾、と評している。こちらは上記のエピソードとは正反対の光秀像だが、『麒麟がくる』はどちらの路線で行くことになるのかはまだわからない。

 

ついでに言うと、この『武士の日本史』では貝原益軒の『文武訓』の文章を紹介しているが、この本のなかでは18世紀の兵法家が「日本は武国だから、中国のように正直で手ぬるいことでは功を挙げられないし、日本の風俗に合わない」といったと書かれている。中国の戦い方が日本より手ぬるいとは考えられないが、江戸時代の兵法家がこのように考えていた事実は興味深い。