2018年以降、山川出版社から順次刊行されている歴史の転換期シリーズの1巻。最初の巻となる『B.C.220 帝国と世界史の誕生』は紀元前220年前後の世界を横断的に取りあげているが、4章中3章が古代ローマを扱っていて、残り1章が古代中国と内容は古代ローマに偏っている。目次は以下のとおり。
総論 帝国と世界史の誕生 南川高志
1章 変わりゆく地中海 宮嵜麻子
1 ローマ帝国の形成とスペイン
2 前三世紀のローマとイベリア半島
3 ヒスパニア戦争
4 ローマ帝国の支配と政治
2章 消滅するヘレニズム世界 藤井 崇
1 アンティオコス三世時代のヘレニズム世界
2 第二次マケドニア戦争終結まで
3 アンティオコス戦争終結まで
4 第三次マケドニア戦争とその後
3章 帝国の民となる、帝国に生きる 南川高志
1 帝国が生み出したローマ皇帝
2 帝国の民となる
3 フロンティアの実態
4 帝国に生きる
4章 「中華帝国」の誕生 宮宅 潔
1 「中華」の形成
2 秦の歴史
3 同時代人の見た前二二一年の中国
4 秦の占領政策とその限界
5 「統一」の行方
コラム
カルタゴ滅ぼさざるべからず
中央アジアのヘレニズム世界
公共浴場と円形闘技場
秦漢の戸籍制度
匈奴
この中では、3章の「フロンティアの実態」に特に興味を惹かれた。ここを書いている南川高志氏はブリタニア属州を扱った専門書を書いているが、ここでは帝国辺境となるブリテン島の支配の実態について書かれている。なお、南川氏の『新・ローマ帝国衰亡史』については以前このブログでも紹介した。
ローマとブリテン島の本格的な交流はカエサルの侵攻によって始まるが、本格的にこの地が征服されたのは皇帝クラウディウスの時代になる。この時代、ローマ軍はカトゥウェッラウニ族の主邑カムロドゥヌムを占領し、属州ブリタンニアが設立された。
ブリタンニアの属州総督アグリコラはその統治の様子を『アグリコラ』に記録しているが、このなかでは神殿や市場の建設、酋長の子弟の教育など「ローマ化」の様子がくわしく書かれている。だが、実際のところ、ブリテン島はどれほど「ローマ化」されていたのかというと、他の属州ほどローマ文化は定着していなかったようだ。
ブリテン島最大の都市ロンディニウムは市壁に囲まれた面積が133.5ヘクタールで、これはガリア北部の中心地トリーアの280ヘクタールに比べずっと狭い。ブリテン島の各都市には円形闘技場が作られているものの、カムロドゥヌムにはローマ文化の象徴ともいえる公共浴場が存在しなかった。実際のところ、ブリタンニアの都市の大部分は正規軍要塞と同程度の規模だった。
ブリタンニアの住民は五賢帝時代が終わってもあまりローマ化されておらず、200年ころの地誌には「この島の住民は古来の習慣を維持し、貨幣を使うことを拒み、ものの授受ですませている。(中略)彼らは神々の崇拝に熱心で、男も女もともに将来のことを予見する知識をもっている」と書かれている。この地から元老院議員になったものが二人しか見いだせないことも、帝国エリートを多数輩出するほどローマ文化がブリタンニアに浸透しなかったことを物語っている。
思うに、ロンディニウムなどの都市は、古代日本における多賀城や秋田城のようなものではなかったか。そこは中央の文化と現地の文化が交わる最前線であり、原住民の潜在的脅威に対応するための軍隊の駐屯基地でもあった。実際、本書でもブリタンニア属州における軍事的要素の濃さが強調されている。
この属州では、軍隊と軍事の占める要素が極めて多い。兵士が道路や町、防壁を作った。ブリテン島には三正規軍団が駐屯していたが、彼らは在勤中に行政にも駆り出された。この属州の総督は450名ほどの部下をもっていたと考えられるが、そのほとんどは退役兵であった。兵士たちは、島の北部のローマに従わぬ人々との戦闘だけでなく、内乱になれば動員されて大陸へと渡り戦った。ローマ皇帝政府やその競争者(反乱者)は、この島が見征服地をかかえて軍を多数配置していることを熟知し、内乱とあればその軍を頼ったのである。
ブリタンニアにおいては83パーセントの住民が田園地帯に住んでおり、これらの住民の大半がローマ人到来以前の鉄器時代の延長上にある生活を営んでいたと考えられている。ローマ風の生活がおこなわれていたのは兵士の駐屯地とローマ風の農業屋敷(ヴィッラ)、大きな都市とみられるが、いずれも属州のごく一部に過ぎない。属州総督アグリコラがローマの教養学科を学ばせようとしたのが酋長の子弟に限られ、古代終焉期にはろくろ使用の陶器が帝国中ではもっとも早くこの島から消え、手びねりの土器に回帰したという事実も、ローマ文化の定着の浅さを思わせる。
「歴史の転換期」シリーズは全11巻刊行予定だが、現在10巻に当たる『1905年 革命のうねりと連帯の夢』までが刊行されている。