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【感想】十二国記『白銀の墟 玄の月』3~4巻と「正史の隙間」の物語

 

白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第三巻 十二国記 (新潮文庫)

  • 作者:小野 不由美
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/11/09
  • メディア: 文庫
 

 

『白銀の墟 玄の月』1~2巻は、戴国がどれだけ悲惨かを書くことにほぼ費やされた。この2巻は、読者の忍耐力が試される巻だった。十二国記という確立されたブランドだからこそ、なんのカタルシスも得られないこの内容でも読者はついてくる。希望の見えない探索行の果てに、ようやく驍宗の痕跡らしきものをみつけた李斎らも、最後の最後でまたしても裏切られた。麒麟も成長はしているものの、あまり身動きも取れないままに2巻は終わった。

 

で、3巻。雪に閉ざされ、戴をとりまく状況がいよいよ切迫の度合いを増すなか、わずかながら希望が見えはじめる。まず麒麟が動く。戴麒はなんとみずから六寝へ忍び込む大胆さを見せ、その手も汚す。驚くほどの成長ぶりである。そして宮中にて、戴麒は決定的なものを見てしまう。阿選の器の小ささが、ここにおいて暴露されてししまった。

今まで曖昧模糊としていた阿選の人間像も、しだいに輪郭がはっきりとしてくる。驍宗と並び称されるすぐれた武将であった阿選は、苦悩していた。結局、自分は驍宗の影でしかないのかと悩んでいた。力量の差がわずかしかないからこそ、驍宗が王に選ばれたことの屈辱は大きい。常に互いを好敵手と意識し、切磋琢磨してきたはずの二人の命運は、どこで別れたのか。

力量そのものはあまり変わらなくとも、琅燦からすれば両者の人としての器の差は明らかだ。阿選はできるかぎり、驕王の寵を得ようとした。驍宗に負けたくなかったからだ。しかしこれをしている限り、驕王に逆らうことはできない。驍宗とはそこが違う。驍宗は阿選と寵を争うのではなく、より良き人間であろうとした。どこまでいっても驍宗のまがい物にしかなれない阿選のことを、琅燦はこう評価している。

 

「驍宗様があんたと競っていたのは、突き詰めて言えばどっちがより増しな人間か、ということだったんだ。驕王の寵や地位や名声は、それを目に見える形で明らかにするために必要だったんじゃないの?王に重用されれば、それがすなわち、よりましな人間だということだった。あんたはそのうち、何を競っていたのか忘れてしまったんだよね。何が何でも驕王の歓心が欲しかった。より重用されてより高い地位が欲しかったわけでしょ。──でも、驍宗様は、あんたと何を競っていたのか、それを忘れてなかったんだ」 

 

琅燦に正面切って言われなくとも、阿選は自分が驍宗に及ばないことは理解していただろう。だからこそ阿選は仮王となっても積極的に施政をおこなうでもなく、張運のような小物に朝廷を任せきりにしている。驍宗を生かしたままにしているのも、結局驍宗が死んだら自分が王に選ばれるはずがないと考えているからだ。阿選が驍宗を追い詰めた手法も3巻を読みすすめると明らかになってくるが、阿選はすることが悲しいまでに卑しい。まるでバーフバリの存在により闇に呑まれたバラーラデーヴァを見るかのようだ。驍宗がいなければ、阿選もここまで堕ちることはなかっただろうか。

 

李斎らの驍宗探索行にも、ようやく一筋の光がみえはじめる。旅を続けるうち驍宗麾下の武将も集まり始め、意外な人物も協力を申し出てくる。気がつけば阿選討伐に十分な兵力がそろいつつあった。各々が力を尽くして探しても驍宗の痕跡すら見つからないという現状から、李斎はある答えにたどりつく。驍宗はどこにいるのか。李斎の洞察は当たっていた。本巻の終盤にいたって、ついに読者は驍宗の姿を見いだすことになる。ここにおいて、読者はようやくわずかに飢えを満たすことができる。

 

とはいうものの、まだ李斎らは驍宗を確保できているわけではなく、状況はまだまだ厳しい。そして、いよいよ戴麒も恵棟に真意を明かす。戴の王は驍宗しかいない。今までしてきたことはすべて、驍宗を玉座へ戻すための布石であった。戴麒は瑞州にて善政を施し、朝廷内で権威を取り戻していく。いよいよ戴麒の反撃の機運が整いつつあるなか、ようやく戴国に希望の光がともる。戴麒は瑞州で荒民を保護しているが、これまで3巻にわたって戴国の寒空の下をさまよう荒民のような心持で読み続けてきた身としては、この巻でようやく一息つくことができた気分だ。

 

白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第四巻 十二国記 (新潮文庫)

  • 作者:小野 不由美
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/11/09
  • メディア: 文庫
 

 

 そして4巻に入ると、いよいよ物語は加速していく。『白銀の墟 玄の月』は3巻までは驍宗はどこにいるのか、というミステリ要素によって読者を牽引してきたが、驍宗の居場所が明らかになったからには、当然ストーリーは大きく変質することになる。ここにおいて、ついに物語は戦記となる。事の発端は、阿選軍による土匪の襲撃だ。朽桟への義理から土匪を助けることにした李斎の決断が、時勢を大きく動かすことになる。

文州の戦いは、阿選軍の敗北に終わった。この戦いにおいて、烏衡率いる部隊が残虐極まりない行為を働いたことが、阿選麾下の友尚を大いに失望させた。 友尚もその兵も、なぜ阿選が烏衡のようなものを重用しているのかわからない。ずっと理解に苦しみつつも戦い続けていた友尚の心も、一度の敗北でついに折れた。7年間孤独に耐え続け、なお志を曲げなかった驍宗と阿選とでは、しょせん器が違いすぎる。はじめはほんの少しの違いしかなかったはずの二人の間に、いつの間にか巨大な差がついていた。

 

阿選軍を撃退し勢いに乗る李斎の陣営は充実し、気がつけば阿選に対抗できるほどの兵力がそろっていた。将帥も充実している。李斎らの決起と歩調を合わせるように、戴麒の施政も軌道に乗りつつあった。戴麒の権威は上昇し、張運も失脚する。だが、ここから阿選の反撃がはじまる。小野不由美はそうかんたんに読者の不安を払ってはくれない。それどころか、さらにもう一度、読者を深い絶望の底に突き落とす。援軍を求め旅だった驍宗は捕らえられ、李斎らの軍は王師に粉砕され、また多くのものが命を落とす。阿選は戴麒の文州への恵棟派遣すら邪魔してみせる。窮鼠猫を噛むというか、才覚だけは驍宗にひけをとらない阿選の最後の見せ場である。

一度は優位を取り戻した阿選の最後の策は、実に姑息なものだ。ここはネタバレしない方がいいだろうが、阿選も堕ちるところまで堕ちた、としか言いようのない策だ。これが実行されれば、驍宗麾下は憤死しかねないほどの屈辱を味わうことになる。卑劣を絵にかいたような演出を、阿選はたくらんでいた。

 

この卑劣な策謀をどうにか食い止めるため、李斎らは続々と鴻基に集まってくる。死を覚悟した、無謀ともいえる行動である。だが、救いの手は意外なところから差しのべられた。ここにおいて、戴麒は驚くべき行動に出る。およそ麒麟としては前代未聞の行為である。耶利や琅燦の見立て通り、やはり戴麒は特別だった。彼は「魔性の子」なのだ。これほどの強さと覚悟をもった麒麟は例がない。ここから先の展開はくわしくは書かないが、戴麒の行動をきっかけに、物事はすべてあるべき方向へと進んでいく。長い冬が終わり、ようやく戴にも春がやってきた。阿選の統治下において、戴の地表下でひそかに息づいていた希望の種子が、ここにきて一気に芽吹いた。

 

この4巻の最後は、『戴史乍書』の簡潔な歴史記述で締めくくられている。こう書かれてみると、しごくあっさりと事態は好転したかに見える。だが、この記述の行間にどれほどのことがあったか。戴が復興するまでに、数多くの貴重な命が失われた。驍宗麾下の将帥も、道士も、庶民も荒民も土匪も、皆がその最後を史書に記録してもらえるわけではない。その意味では、十二国記は「正史の隙間」を描く物語ともいえる。『白銀の墟 玄の月』において小野不由美は戴麒や驍宗のような主役級の人物だけでなく、園糸や去思のような庶民や道士の心のなかにも自在に分け入り、戴国の悲惨な現実を地を這うような視線で描きつくした。大所高所から物事を論じる歴史家の目にはみえない現実を、執拗なまでにこの作品は書いている。最終的に皆が望む結末にたどりついたとはいえ、失われたものの大きさを考えれば、天とは何と無情なのかと嘆息したくなる。そんなことを考えてしまうほどに、この作品は完成された一つの世界をつくりあげている。ジョージ・R・R・マーティンが『氷と炎の詩』シリーズで描く物語は、作者の無意識が別世界にアクセスしてそこの様子をそのまま書いているかのように思えるくらいだが、『白銀の墟 玄の月』も別世界をそのまま描写しているかのようなクオリティに達している。

 

もちろん、マーティン作品と十二国記はまったく違うものだ。一番大きな違いは、十二国記が漢字の魅力を最大限用いた作品ということである。『白銀の墟 玄の月』においては、各人物の外見の描写はあまり多くない。山田章博の美麗なイラストがイメージを補完してくれてはいるものの、描かれているのはごく一握りの人物だけだ。だが、十二国記では漢字のイメージが人物像を補完してくれる。驍宗などいかにも王にふさわしい立派な容貌なのだろうと思わせる字面だし、巌趙もその名のとおり巌のような立派な体躯の持ち主であることが想像できる。琅燦など字面からして一筋縄ではいかない、癖のある人格を想起させるし、夕麗はいかにも女性らしい名前だ。騶虞や飛燕、賓満など騎獣や妖魔の名前もこの作品を豊かに彩っている。また、漢字が多用されていることで、作品全体に硬質な品格が与えられている。この大河ファンタジーの雰囲気に存分に浸れるのは、漢字文化圏に住む者ならではの特権だろう。

 

この長い長い作品を読んでいるうち、自分は阿選の悲しさについて考え続けていた。最終局面においても、阿選のために戦ったものは確かに存在する。だが、それは「是非を考えるのは兵士の職分ではない」からであって、ただシステム上阿選に従わなくてはいけないということに過ぎない。阿選に従うのは戦争職人である軍人か、案作のようにその権威を利用しようとする小物だけなのだ。阿選が驍宗の立場であったなら、李斎や霜元のように阿選につき従うものは存在しなかっただろう。いや、そもそも王朝に反抗する立場になれないのが阿選の限界なのだ。大組織の中で大出世を遂げるような生き方しか、阿選にはできない。

阿選と驍宗の差は、いったいどこでついたのか。阿選軍はもともと行儀がいいことで知られていたが、それは結局、阿選は決められた秩序にただ忠実だった、ということではないか。対して驍宗は轍囲の例でもわかるとおり、民のためならときに王命にも逆らってみせる。驍宗麾下の李斎が朽桟を助けたのも、土匪が守られないような世では民も守られない、ということをわかっていたからだ。必要なら本来は軍の敵である土匪とも協力するという柔軟性が驍宗陣営にはある。驍宗もその部下も、目的と手段を取り違えるということがない。彼らは何が本当に大切なのかを決して見失わないのだ。そして、そのようなものにしか天命は下らない。しょせん、阿選は無理やり戴麒を這いつくばらせることしかできないのだ。 

 

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それにしても、何と長い長い忍耐を読者に求める作品だったことか。上記のエントリでは、「1巻については、これが十二国記でなければ最後まで読みとおせた自信がない」と書いた。戴国の悲惨さが、きわめて詳細に描かれていたからだ。最近、年齢を重ねるとともに小説の負の要素への耐性が減っていることを自覚しているので、十二国記という絶対安心のブランドでなければ最後は必ず報われると信じきれない。もちろん、この作品を手に取るような人は訓練された読者ばかりだろうし、必ず最後は満足できるクライマックスを迎えるはずだと信じているだろうが、それでも終盤で戴麒のとった行動は完全に予想外だった。予想は裏切っても期待は裏切らない、というすぐれた作品の必要条件をこの『白銀の墟 玄の月』はみごとに満たしてくれた。『黄昏の岸 暁の天』以来、十二国記の長編シリーズは18年も刊行されていなかったため、ファンの期待値はこれ以上ないほどに高まっていた。しかし本作は、その高いハードルを軽々と越えてきた。この先の物語が読めるのは、何年先になるだろうか。気が早いとは思いつつも、さらにハイレベルな続編を待ち望んでしまう自分がいる。それほどに、これは完成度の高い作品だった。