明晰夢工房

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奴隷狩り・人身売買・略奪……戦国時代の「民衆のリアル」を活写する『雑兵たちの戦場』

 

【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777))

 

 

 ルイス・フロイスは『ヨーロッパ文化と日本文化』において「われらにおいては、土地や都市や村落、およびその富を奪うために、戦いがおこなわれる。日本での戦は、ほとんどいつも、小麦や米や大麦を奪うためのものである」と記している。もちろん現実はこんなに単純ではないし、戦国日本でも領土拡張のための戦争は多い。しかし、戦場における略奪が大いに行われていたというのも、また間違いのない戦国日本の現実である。本書『雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り』は、 苅田狼藉や人・牛馬の略奪(乱取り)、そして人身売買など、「食うための戦争」の実態をあますところなく描いた一冊だ。

 

フロイスは1563年から1597年までを九州や畿内で過ごしている。上記のフロイスの文章は、この地でフロイスが戦場の現実を見たうえで書かれたものだ。たとえばフロイスは島津軍が豊後で捕虜にした人々を肥後で売却するさまを目撃している。当時の肥後の住民は飢饉に苦しんでいたため買い取ったものを養うことはできず、買われた者たちはさらに島原半島で売り飛ばされたとフロイスは記録している。

島津軍に蹂躙された人々は捕虜にされるか、戦争と病気で死ぬか、飢え死にするかである。人が略奪の対象となるのは、慢性化する飢饉のためだった。耕しても食えないのなら、兵士になり、略奪する側になるしかない。戦国時代の軍隊のなかには戦場で主人を助ける中間や小者・村々から人夫として駆り出される百姓が多く含まれているが、これらの「雑兵」たちが戦場における略奪の主体である。

 

これら雑兵による「濫暴狼藉」は、フロイスが見た九州でのみおこなわれていたわけではない。目を東国へ向けると、甲斐においては『勝山気』『妙法寺記』が女性・老人・子供など無数の「足弱」が生け捕りにされる様子を記録している。戦国期は甲斐でも飢饉が頻発していたため、やはり人や物資を略奪する「食うための戦争」が戦われている。

また、『甲陽軍鑑』には、武田軍の北信濃における乱取りの様子がくわしく書かれている。武田軍の雑兵たちは敵地に侵入し、休養を告げられると付近の民家を襲い、田畑の作物を奪っている。敵方の城を落したときも乱取りが認められていて、上野箕輪城を落したときなどは武田軍の侍から下人・人夫にいたるまで、城下の乱取りを続けた。『甲陽軍鑑』はその信憑性に疑問が持たれているものの、藤木久志氏は「この書物の雑兵たちを描き出す迫力は他の追随を許さない」としている。

 

武田軍の雑兵があちこちで略奪をはたらく様子は、フロイスが九州で見た戦場の現実と変わらない。では、ライバルの上杉謙信はどうなのか。「義将」謙信はかかる蛮行とは無縁なのだろうか。残念ながらそうではないようである。本書では、上杉謙信常陸の小田城にて「奴隷売買」をおこなっていたと指摘している。

 

小田氏治の常陸小田城(茨城県つくば市)が、越後の上杉輝虎(上杉謙信)に攻められて落城すると、城下はたちまち人を売り買いする市場に一変し、景虎自身の御意(指示)で、春の二月から三月にかけて、二十~三十文ほどの売値で、人の売り買いがおこなわれていた、という。折から東国は、その前の年から深刻な飢饉に襲われていた。(p35) 

 

本当なら、謙信もやはり「食うための戦争」と無縁でなかったことになる。では、(建前上は)天下布武のための戦をしていた信長はどうか。本書では信長が天正元年(1573年)、信長が一万あまりの兵を率いて上洛したときの事例を紹介しているが、この時も信長軍の兵士たちは乱取りに熱中していた。『信長公記』には信長が飼っていた鷹に「乱取」と名付けていたことも記録されているが、それだけ戦場における略奪は戦国大名にとり身近なものだったようだ。

つまるところ、どの戦国大名にとっても乱取りは「必要悪」という一面があった。戦場の底辺をさすらう雑兵たちには、武士道の縛りなどはない。戦っても恩賞が出るわけでもないから、かれらを兵として活用するなら略奪を恩賞代わりに認めるしかない。雑兵たちは奪った物資により豊かになるので、自国が戦場になることのなかった武田領は民百姓まで皆豊かだったと『甲陽軍鑑』は記している。

 

こうした略奪を行っていた雑兵たちは、もともと農村から駆り集められてきた者が多い。かれらは農業では食えないからこそ兵になるのである。そのことをもって戦国時代の軍隊は兵農分離できていなかったとする説があるが、著者はこれに異を唱えている。戦国大名の戦争の多くが農閑期に行われていることは本書でも指摘されているが、これは武士の専業化が未熟だったからではなく、 傭兵を多く集めるには農閑期に戦うしかなかったからだという。

ほんとうは、各地の戦国大名も百姓ではなく強い兵士を求めていたことが各種史料から確認できる。北条氏も夫(人夫)同然のものばかり集めたら村の小代官は死刑とする命令書を出しているし、武田氏も有徳の者や武勇の人でなく百姓や職人などを軍役に出すのは「謀逆の基」としている。戦場で乱取りにふける百姓を徴兵したくはなかったのである。専業の武士はいたが、それだけでは戦力が足りないので農兵も雇わなくてはいけないのが現実だったということだろうか(そういう状況を兵農分離できていないというのでは、という疑問もあるのだが)。

 

saavedra.hatenablog.com

 

室町時代から戦国時代にかけて、日本人はかなり獰猛だったという指摘がある。その要因として、日本が自然災害大国だったということは外せない。明治以前、改元のかなりの部分を天災地変を理由とする「災異改元」が占めていた。もちろん改元したからといって疫病や飢饉がおさまるはずもなく、民衆が出稼ぎの場を求めて戦に出ていく現状は変わらない。かれらが皆侍になりたかったわけではなく、下克上を求めて戦場に出たわけでもない。そんなことよりまず食わなくてはならない、という切実な事情がかれらにはあった。そして、戦国大名も戦を仕掛けることでその願いにこたえた。上杉謙信も例外ではない。たとえば以下のような本書の指摘は、清廉な上杉謙信像にも再考を迫るものとなっている。

 

農閑期になると、謙信は豪雪を天然のバリケードにし、転がり込んだ関東管領の大看板を掲げて戦争を正当化し、越後の人々を率いて雪の国境を越えた。収穫を終えたばかりの雪もない関東では、かりに補給が絶えても何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎになった。戦いに勝てば、戦場の乱取りは思いのままだった。こうして、短いときは正月まで、長いときは越後の雪が消えるまで関東で食いつなぎ、なにがしかの乱取りの稼ぎを手に国へ帰る。

(中略)

すでに見たが、武田方の軍記『甲陽軍鑑』も、信玄を自慢するのに、勝ち続ける戦場の乱取りのお陰で甲斐の暮らしはいつも豊かだった、とくり返し強調していた。この軍記ふうにいえば、越後人にとっても英雄謙信は、ただの純朴な正義感や無鉄砲な暴れ大名どころか、雪国の冬を生き抜こうと、他国に戦争という大ベンチャー・ビジネスを企画・実行した救い主、ということになるだろう。しかし襲われた戦場の村々はいつも地獄を見た。(p97)