明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

太古の昔、ブログは「文学」だった。

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今日はこちらのエントリを読んで思ったことなどを。

 

ブログに商業化の波がやってくる前、この世界はただリアルには出せない、自分の思いのたけをぶつけるだけの場所だったように記憶している。もちろん観測範囲の問題はあるし、以前から商売のためにブログを書いていた人も、ブログを書籍化した人がいることも知っている。だが総じてブログ空間は、ただ書きたいこと、訴えたいことがあるから書く、という人が多くを占めていたように思う。

 

はっきり空気が変わり始めたと感じたのは、「ブログで自分語りなどしてはいけない」と主張する人たちが出てきた頃からだ。需要のないエントリなど書いてはいけないということだ。自分が書きたいかどうかではなく需要があるか、要はお金になるかが一番の関心事、という人たちが増えてきた。ブログをどう書こうと自由なのだが、はてなブログの中でも毎月の収入やPV報告をする人が増えてきた頃にはけっこう違和感を感じていたのをよく覚えている(今はもう何とも思っていない)。

 

saavedra.hatenablog.com

 

私はhtml日記の時代からいろいろな人のサイトを読んできたが、個人サイトの内容はほぼ自分語りだったし、それでいいと思っていた。私は生きづらそうな人の日記をよく読んでいたが、そういう誰とも替えのきかない、その人個人の心の声を読めることに価値を感じていたからだ。

商業ブログを運営している人たちが言うように、確かに無名な個人の自分語りなど大して読んでもらえるものではない。だがそれが問題なのだろうか。個人日記など読んでもらうためというより感情の排出のために書くものだし、反応などたまにあればいい、という程度のものだったのではないだろうか。王様の耳はロバの耳と井戸の底に向かって叫んでいるだけの文章に、多くの反応がある方がむしろ困る。

 

昔はネットをやっている人の数自体が少なかったので、皆が需要など気にせず、好きなことを語っていた。商業的な見返りがないのだから、書きたいことを書くしかない。誰が読むともわからないボトルメールが、大量にネットの大海に流されていた。たまに浜辺に流れついたその文章は、読み手の感性に合えば真剣に読まれることもあった。それが何かを売り込むための文章ではなく、純度100%の本音だったからだ。このようないにしえのブログの在りようは、一言で表現するなら「文学」だったのではないだろうか。

 

小説は君のためにある (ちくまプリマー新書)

小説は君のためにある (ちくまプリマー新書)

 

 

ブログが文学だなんて大げさだ、と思われるかもしれない。私自身そう思わないでもないし、自分の文章が「文学」だなんてこれっぽっちも思っていない。だが、作家の藤谷治氏は『小説は君のためにある』で「文学」をこう定義している。

 

文学とは、書いた人間が読者を特定できない文章の総体である。

メールとか手紙、伝言のメモといった文章は、書いた人間が「特定の誰か」に向けて書くものだ。ほかの人に読ませるつもりはないし、原則的に、読まない。人の携帯を開いて、メールなんかを勝手に見る人がいるけど、あれはルールにもマナーにも反している。

(中略)

こんにち、世界中で何億もの人々が、ブログやソーシャル・ネットワーキング・サーヴィス(SNS)に、何かを書いている。僕も書いているし、君も書いている。

その書きこみは、ことごとく文学なのである。君はすでに、文学の書き手なのだ。 

 

藤谷氏はこの定義が「乱暴」であることを断りつつ、想定外の読者が読んだら伝言や手紙だって文学なのだ、と書いている。読者を特定できない文章は文学だ、というこの定義はおもしろい。この定義に従うなら、ブログ空間は文学青年、文学女子だらけだ。少なくとも昔はそうだった。今でも読者を特定できない個人ブログを書いている人はたくさんいるから、令和の日本はまだまだ文学の盛んな国だということになる。

もちろん、こんな「文学」の定義には納得できない人もいるに違いない。ただ、個人ブログの中にはある種の「味」があるものが存在することは確かだ。ここでいう「文学」とは、読む人が何らかの「味」を感じられるもの、という程度の意味だ。個人ブログがすべて文学だとはいえないとしても、文学といっていいブログも存在する。かつてはてなには「はしごたんは文学」という言い方が存在していたが、これを覚えている人がどれくらいいるだろうか。

 

個人ブログが読み手を特定していない一方、商売のためにやっているブログは読み手を特定している。ウェブマーケティングではターゲットのペルソナを設定しましょう、とよく言われるが、何かを売るブログは買い手の像を明確に設定していることが多い。つまり商業ブログは「文学」の対極にある。仮に商業ブログが想定した読者以外に読まれたとしても、そうしたブログに「味」を感じる読者はほとんどいない。そもそもそういうものではないからだ。ブログ界にマネタイズの波が押し寄せたことを嘆く人は、この世界から文章の「味」、大げさに言えば「文学」が失われつつあることを嘆いているのかもしれない。

 

ブログは文学であるべきだ、なんてことを言うつもりはない。そもそも人は「べき」などでは動かない。ブログを商売のために使ってはいけない理由はないし、このブログにだって収益化している部分はある。ただ、多くの人がマネタイズを考えれば、必然的に真剣なやりとりも失われる。なにかを売りたいなら人には愛想よく接したほうがいいに決まっているし、わざわざ議論を吹っかけたりする理由もない。読み手としても、いかがでしたでしょうか?で締められる文章に本気で怒る理由もない。そこにあるのはただの宣伝文句であって、書き手の本心などではないからだ。

 

正直に言って、かつて言及文化が盛んだった頃のはてなに戻りたいかというと、私はあまりそう思っていない。本音のやり取りは疲れるものだ。商業ブロガーが言う通り、無名な個人の自分語りや主張なんて読まれないのだが、その読まれなさがむしろ心地良いのではないか。今はむしろ、個人ブログはかつてのhtml日記と同程度の過疎具合でのんびりやれるもの、と考えてもいいのかもしれない。最近、自分自身への期待をどれだけ手放せるかが、ブログを長く続けるコツだと考えはじめている。そもそも文学なんて、それほど読まれるものではないのだから。

 

どうしてもブログを読んでほしいなら、需要があることを書くしかない。自分語りがエンターテイメントになるほど面白い人はほとんどいないから、必然的にSEOをすることになる。だが、ここをいくらがんばってもPVや収益は増えても、ブロガー個人のファンが増えるわけではない。検索エンジンからやってくる人たちは必要な情報が得られればいいわけで、その人の文章だから読みたいわけではない。もちろん、継続的に有益な情報を出し続けることで、ブログ自体が気にいってもらえる可能性はある。だがここでも必要とされているのは情報であって、そのブロガー自身ではない。

 

商業ブロガーが自分語りなんてするな、というのは自分自身を受け入れてもらえなかった悲しみの表れだ、と考えるのはうがちすぎだろうか。その悲しみは収益やPVを得ることで癒すことはできるだろうか。私自身はウェブで書いた小説に感想をもらうこともあるが、そこで感じる満足感は、収益を得ることで感じる満足感とはまったく別種のものだ。自作を読んでもらえると、有益な情報を提供して稼ぐよりはるかに「この自分」を認めてもらえたような気分になる。ただの個人日記を読んでもらうのも似たような感覚だろう。お金では満たされない渇望があるのなら、今後も細々とではあれブログ界でも「文学」は書き続けられるのかもしれない。

 

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