先日、糸井重里氏のこんなツイートが話題になっていた。
わかったことがある。
— 糸井 重里 (@itoi_shigesato) 2020年4月9日
新型コロナウイルスのことばかり聞いているのがつらいのではなかった。
ずっと、誰ががが誰かを責め立てている。これを感じるのがつらいのだ。
責めるな。じぶんのことをしろ。 https://t.co/uLIz0k9cSd
— 糸井 重里 (@itoi_shigesato) 2020年4月9日
このツイートへの反応の多くは批判的なものだ。なぜ政府の対応がおかしいことを責めてはいけないのか、という意見が批判の多くを占めている。糸井氏のツイートに政府を擁護する意図があるかはわからない。ただ、「誰かを責める声」の中には政府を批判する声も確実に含まれる。「責めるな」というメッセージは、政府への不満の声を封じることにもつながりかねない。だから反発を受けているのだろう。
これは糸井氏個人というよりも、この発言の背後にある価値観の問題だと思う。自己啓発書などでは「過去と他人は変えられない、未来と自分は変えられる」というカナダの精神科医エリック・バーンの言葉が紹介されることがある。これは、糸井氏の「責めるな、自分の事をしろ」というメッセージとほぼ符合する。自己啓発の源流といわれるアドラー心理学でも、「自分の課題」と「他人の課題」を分離せよ、といわれる。変わってくれない他者に文句を言うより自分がどうすればよりよく生きられるかを考え行動するほうが生産的だ、という主張には一定の説得力がある。
だが、この主張がいつも正しいとは限らない。時と場合によっては、他者に働きかけ、変わるよう求めていかなくてはならないこともある。
一部の業種が新型コロナウイルス対策の休業補償の対象外になったことは、多くの批判にさらされた。このような批判も「誰かを責める声」だ。だが、こうして声をあげる人がいたからこそ、これらの業種も休業補償の対象になった。「他人は変えられないのだから自分ごとに徹すべき」と悟りすましたことを言って不適切な政策を批判しなければ、状況が動くことはなかっただろう。
自己啓発では一般に、批判したり怒ったりすることはよくないとされる。この世界ではポジティブであることが推奨されるからだ。一個人がポジティブであろうと自分を律することはもちろん自由だ。だが、今は多くの人が不安や怒りを抱えて当然の状況になっている。今生活が苦しい人がそうした不満を国にぶつけるのも大事なことだ。単にガス抜きになるからというだけでなく、それは結局回りまわって社会をよくすることにもなる。
「氷河期世代の就職難?自己責任だろ?」と見捨てた20年後に「助けて30代40代が仕事の経験積んでないし結婚しないし子ども生まないし家も車も買ってくれないの、どうしよう」とか言い出してるのがこの国なので、あなたが助けを求めることはみんなのためでもあるんです。お願いだから助けを求めて下さい
— MAEJIMA Satoshi (@MAEZIMAS) 2020年4月8日
こういう社会的な視点が、自己啓発には欠けている。自己啓発は今の状況を所与のものとして、その中でどうサバイバルしていくか、を考えるものであり、状況自体を改善するという発想がないからだ。「他人は変えられないから自分事に徹せよ」では、自分自身は救えたとしても社会は変えられない。そもそも今は自分自身が生きのびるためにこそ、給付や補償を求めざるを得ない人がたくさんいる。他人(この場合は政府)を変えなくてはいけないのは、それが自分事だからだ。この局面において、他者を批判したり不平不満を言うことを良しとしない自己啓発の在り方は、結局自分自身の手足を縛ることにもなる。自分自身のみを律することを求める自己啓発の考え方には、最初から限界があったのかもしれない。