明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【書評】オスマン帝国600年の歴史が新書一冊でわかる『オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史』

 

オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史 (中公新書)

オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史 (中公新書)

 

 

大変読みごたえのある一冊だった。オスマン帝国600年の歴史の概略を、この一冊で知ることができる。この本ではオスマン帝国歴代スルタン全員の事績を追いつつ、その興隆から滅亡までの流れをたどっていくが、こうした本はともすれば退屈な史実の羅列になりがちだ。だがこの本では各スルタンのエピソードもできるだけ拾いあげつつ、「封建的公国の時代」「集権的帝国の時代」「分権的帝国の時代」「近代帝国の時代」それぞれの時代の特色を描き出しているので、最後まで飽きずに読み進めることができる。オスマン帝国だけでなく、およそ世界史に少しでも関心のある読者なら読んで損はない。

 

かつてオスマン帝国は「オスマン・トルコ」と呼ばれていたことを知る人も少なくないだろう。私も世界史の授業ではこの名称で習った。では、なぜこの国の名称から「トルコ」が外れたのか。序章を読むとその理由がわかる。この国は「トルコ」を自称しておらず、オスマン帝国の歴史上、トルコ系の人々がマジョリティだった時期は極めて短かったからだ。この国の臣民はアルバニア人セルビア人、チェルケス人、ギリシャ人、クルド人アルメニア人など多様だ。支配される側だけでなく、支配する側もトルコ系が少なく、36代の君主のうちトルコ系の生母を持った君主が初期の数人しかいない。このような国を「トルコ」と呼ぶのはふさわしくないということになる。

 

オスマン帝国は何となく「トルコ系遊牧民がつくった国」というイメージがあるが、一章「辺境の信仰戦士」を読むとこれが幻想でしかないことがわかる。実のところ、遊牧民的なふるまいが見られるのは、せいぜい始祖オスマンの時代の初期くらいだそうだ。この国をまとめあげていたのは、遊牧民としての結束力ではなく、「信仰戦士」としての共同体意識だった。信仰戦士と書くとストイックなイメージになるが、その実態は略奪をこととする野盗の集団といったところのようだ。とはいえ、イスラムの「聖戦」という概念が略奪行為に正当性を与えた。北西アナトリアの食い詰め浪人たちがつくったこの国は、2代君主オルハンの時代にアッバース朝セルジューク朝の統治技術を取り入れ、次第に国家としての体裁を整えていくことになる。

 

オスマン帝国を語るうえで欠かせないのが、火器で武装した常備軍イェニチェリだ。イェニチェリ軍団へ人材をリクルートする制度をデヴシルメと呼んでいるが、この制度では近隣のキリスト教徒国の子弟を徴収している。彼らの身分は奴隷だが、実はイスラーム法ではキリスト教徒臣民を奴隷にすることは認められていない。キプチャク平原出身の奴隷を購入し続けていたマムルーク朝とは違い、オスマン帝国は「脱法行為」を行っていたのだ。イスラム法を杓子定規には適用せず、柔軟に運用するのがオスマン帝国の強みのひとつでもある。

 

このオスマン帝国の柔軟性についてはは、2章でも言及されている。コーランでは本来利子を固く禁じているが、ハナフィー学派の学者エビュッスウードはイスラム法を大胆に読み替え、現金ワクフを認めた。ワクフとはイスラムの宗教寄進制度だが、現金ワクフを認めることでオスマン帝国では実質的な金融制度が営まれていた。このように、オスマン帝国ではコーランの文言より現実が優先される。「柔らかいイスラム法」によって支配されているのが、オスマン帝国という国家だった。

 

オスマン帝国が強大化した一因として、兄弟殺しの慣行があげられる。後継者争いを未然に防ぐことで、国家の弱体化をまぬがれることができるからだ。だが、この慣行もいつまでも続いたわけではない。第三章「組織と党派のなかのスルタン」を読むと、アフメト1世が幼くして即位したときは、その弟ムスタファが処刑されることはなかった。これ以前、メフメト3世が即位するときに19人もの王子が処刑されたことも、兄弟殺しが避けられた原因となっている。以後兄弟殺しの慣行は廃止され、かわって「鳥籠制度」がつくられた。これは、現スルタンの兄弟は宮殿の奥深くに隔離され、外界との接触を断たれるというものだ。オスマン帝国は柔軟性に富む一方で、このような残酷な一面も持つ国家だった。

 

第4章「専制と憲政下のスルタン=カリフ」では、「大王」とよばれたマフムト2世の事績が印象に残る。軍隊の近代化のためイェニチェリの反乱を鎮圧し、ムハンマド常勝軍を設立。内務省財務省を設置して行政改革も行い、印刷所や検疫所、郵便局も設けるなどあらゆる面で近代化を進めた君主だった。西洋風の楽団が音楽を奏でるなか、礼拝に赴く姿は「異教徒の帝王」と揶揄されることもあった。軍事改革のためプロイセンからモルトケを招いたこの近代君主の名がなぜあまり知られていないのか、不思議になるくらいだ。

このような開明君主が国を率いていても、オスマン帝国の衰亡が避けられなかったのはなぜか。本書では非ムスリム臣民がナショナリズムに目覚め、帝国から独立していったことを原因の一つに数えているが、この国がより強大なヨーロッパ諸国の隣に位置していたから、ということも無視できないだろう。もっと孤立した地域にこの国が存在していたらどうなっていたか。歴史研究家も、ついそう考えたくなるようだ。

 

 研究者バーキー・テズジャンは、もしオスマン帝国アメリカ大陸のような相対的に孤立した地域に位置し、列強の干渉がなければどうなっていたであろうか、と仮想する──ムスリムと非ムスリムの差別は、アメリカの公民権運動のような形で、徐々に是正されていったのではないか、と。歴史に「もし」は禁句だといわれるが、そのような可能性がありえたと想像することも、無駄ではないだろう。(p293)