明晰夢工房

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『岩波講座世界歴史12 遭遇と発見』に見るギリシア人のスキタイ観の変化

 

岩波講座 世界歴史〈12〉遭遇と発見―異文化への視野
 

 

この巻では『古代ギリシア人のスキュタイ観』が特におもしろい。遊牧騎馬民族は野蛮で農耕民族は文明的、というステロタイプはすでに克服されつつあるが、古代ギリシア人は遊牧騎馬民族であるスキュタイをどう見ていたか。この小論を読むと、意外なことに古代ギリシア人はスキュタイ人を理想化していた時期があることがわかる。

 

ヘシオドスの作とされている『カタロゴイ』は史上初めてスキュタイ人に言及した文学作品だが、この著者は「思慮が饒舌に勝っている」民族としてエチオピア人やリビア人に続き、スキュタイ人を挙げている。また、前6世紀にはスキュタイ人の賢者アナカルシスの名もギリシア中に広く知られていた。前6世紀の段階では、交易や植民活動を通じてスキュタイ人の実態が知られるようになってきたものの、まだ遠方の民族を理想化しよとする願望も強く存在していた。

 

前5世紀にはいると、「野蛮で恐ろしい」スキュタイ人のイメージが登場する。『縛られたプロメテウス』において、詩人アイスキュロスはゼウスがプロメテウスを罰するための場所としてスキュティアの荒野の崖の岩山を選んだ。「まず初めに、ここより日の昇るほうへ向かって未開の荒野をたどってゆくのだ。するとスキュティアーの遊牧民のもとに至るであろう」という描写からは、スキュタイ人を理想化する傾向は読み取れない。

 

ヘロドトスはスキュティア人について公平に記述しているとされているが、『歴史』にもスキュタイ人の慣習を野蛮とみなしている箇所がある。スパルタ王クレオメネスがスキュタイ人と交際した結果、生酒を飲むことを覚えて気が狂ったという記述は、スキュタイ人がギリシア的規範から逸脱しているというという価値観の表れだ。ギリシア人にとり、葡萄酒は水で割って飲むものだが、水で割らずに生酒で飲むのは「スキュティア式」とよばれ、野蛮人の特徴とされていた。

 

ヒポクラステス全集に収められている『空気、水、場所について』においては、スキュタイ人蔑視がさらにひどくなる。この論考では、スキュタイ人は牛車で座って生活するので体つきはたるんでくるのだとか、男性にはあまり性欲が起こらず女性の子宮も精液を受け入れ保っておくことができないのだとか、本当かどうかわからないことが書いてある。スキュタイ人は自然環境と生活慣習によって肉体も精神も柔弱になるというのだが、これが遊牧騎馬民族の実態とは思われない。医学論文の名のもとに偏見の寄せ集めのような文章が書かれてしまうのも、それだけギリシア人を中心としたバルバロイ観が定着してきたからでもある。ポリスこそが唯一人間が生きるに値する社会という排他的なギリシア人の自己認識が、無知蒙昧な野蛮人というスキュタイ人のイメージを生み出した。

 

不思議なことに、ヘレニズム時代とローマ時代には、スキュタイ人を理想化する傾向がギリシア知識人の間で見られたという。この志向は文明から逃避し、より自然に近い生活を賛美するキュニコス学派の価値観から出てきたものだそうだが、蔑視もゆき過ぎれば揺り戻しがくるということなのだろうか。「無知蒙昧な蛮族」であれ、「高貴な野蛮人」であれ、どちらもギリシア人の側から一方的に押しつけられたイメージであり、スキュタイの実像そのものではないという点には歯がゆさを感じる。スキュタイ人がみずから自民族のことを語っていない以上、その実像に迫るには考古学によるしかないのだろうか。