明晰夢工房

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【感想】パオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』

  

コロナの時代の僕ら

コロナの時代の僕ら

 

 

このエッセイ集を貫くものがふたつある。明晰さと真っ当さだ。パオロ・ジョルダーノは素粒子物理学を修めた科学者らしく、COVID-19が人間社会にもたらす影響を、ビリヤードの球を用いて説明する。75億のビリヤードの球に向かって、最初に感染した球、つまりゼロ号患者が突っ込んできて、ふたつの球にぶつかって動きを止める。はじかれたふたつの球が、それぞれまた別のふたつの球にぶつかる。これが延々くりかえされ、感染は爆発的に広がっていく。

 

このような的確で明快な比喩が、読者にCOVID-19の性質の理解を助けてくれる。別の個所では、ウイルスの感染防止措置を水道管を用いて説明している。感染症流行への対抗手段は、基本再生産数をなんとかして下げることだが、パオロはこれを「水道の元栓を開いたまま蛇口の修理をするようなもの」とたとえる。ウイルスの水流を元から絶てないのなら、どうにかして水の勢いを殺し、感染スピードを遅くしなくてはならない。だが、少しでも対策をゆるめれば、また水は元の勢いで噴出する。パオロが言うとおり、これは「悪い知らせ」だ。東京で再びCOVID-19の感染者が増えつつある今、このウイルスの水流を止めることの困難さを思い知らされる。

 

私のように科学に疎い読者にも、パオロ・ジョルダーノは明晰な言葉で、COVID-19が引き起こしていることを説明してくれる。だが、そこだけに本書の価値があるわけではない。読み進めていくとわかるのは、パオロが人と社会を見つめるまなざしの真っ当さだ。彼は誰のことも責めない。コロナ禍について、特定の国家や人種に責を負わせる言説を、彼は退ける。パオロは日本人女性がイタリアのスーパーでさっさと国へ帰れ、と怒鳴られたことについて、こう書いている。

 

今、僕たちが直面している状況では、ありとあらゆる反応が予見される。怒る者もあれば、パニックにおちいる者もあるだろう。冷淡な反応もあれば、シニカルな反応もあり、信じられないと思う者もあれば、あきらめる者もあるだろう。その点を心に留めておくだけで、普段よりも少しひとに優しくしよう。慎重になろうとすることができるはずだ。さらに、スーパーの通路で他人をぶしつけな文句で罵ってはいけないということも覚えておこう。

いずれにせよ──どうしてもアジア人の顔を見分けることができぬ僕らイタリア人の困難はさておき──今度の新型ウイルスの流行は、何もかも「お前らの」せいではない、どうしても犯人の名を挙げろというなら、すべて僕たちのせいだ。

 

このメッセージは、さほど特別なものではないかもしれない。言っていること自体は、ごく普通に良心的なことではある。だが、当たり前のことを当たり前にできなくなるのがコロナ禍の恐ろしさだということが、この数か月で身に染みた。今なお世界中でアジア人へのヘイトがくり返される中、著名な人がこういう真っ当なことを言うのは、やはり大事なことだ。

 

このエッセイを読んでいくうち、私は不思議と心が静まっていくのを感じた。『コロナ時代の僕ら』は、読む人によっては少々地味で、淡白な文章と思えるかもしれない。パオロはネットで注目を浴びるタイプの「強い言葉」を使わないからだ。パオロはあらゆる扇情的なメッセージや、極端な主張から慎重に距離を置いている。この態度は科学者としての理性から出たものでもあり、人間としての良心から出たものでもあるだろう。この双方を兼ね備えているからこそ、パオロの文章は抵抗なく心に沁み込んでくる。

 

コロナ禍がはじまって以来、あらゆる「強い言葉」がネット上にあふれた。それはどこかの国や為政者を責めるものであったり、「自粛」の足りない個人をあげつらうものであったりした。これから訪れる重苦しい未来を描き出す言説があったかと思えば、今後人類が新たなステージへと移行するのだ、といわんばかりの地に足のつかないメッセージも見かけた。これらの言説のなかには、必要なものもあったかもしれない。だがそれ以上に、こちらの心を疲弊させ、不安を増幅させるものの方が多かったように思う。

こうしたものにくらべれば、パオロが『コロナ時代の僕ら』で書いていることは、刺激は少ないかもしれない。ネットで無名な人が書いていたらあまり目を引かないたぐいの文章だろう。パオロは誰の不安をあおることもないし、バラ色の未来を描き出すこともないから、彼の文章を読んで心の振幅が激しくなることはない。どうにかして人の耳目を集めてやろうと手ぐすね引いている人があまたいる中で、こうした落ちついた文章は貴重だ。

 

現在の膠着状態は甚大な損害を生むだろう。失業、倒産、あらゆる業界における景気低迷。誰もがそれぞれの難題の山とすでに取り組み始めている。僕たちの文明が、スピードを落とすことだけは絶対に許されないようにできているためだ。ただ、今度の流行の後で何が起きるのかの予測は複雑すぎて、僕にはとても無理だ。降参する。その時が来たら、変化をひとつづつ、受け入れていきたいと今は思っている。

 

未来について確実にいえることなど何もない、というこの正直な吐露は、「強い言葉」の対極にあるものだ。コロナ禍について多くの刺激物を摂取しすぎたあとでは、この地味さ、正直さに好感を持つ。科学者は予言者ではない。わからないものはわからないと言わなくてはいけないのだ。パオロの言葉は、コロナ禍の霧をすべて振り払ってくれはしない。ただ、今我々が置かれている状況を整理し、これからどうすべきかを考えるヒントをくれるだけだ。そして、真っ当な言説とはそういうものなのだ。