明晰夢工房

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呉座勇一氏による明智光秀の人物評が『明智光秀と細川ガラシャ 戦国を生きた父娘の虚像と実像』で読める

 

明智光秀と細川ガラシャ (筑摩選書)

明智光秀と細川ガラシャ (筑摩選書)

 

 

四人の著者が明智光秀ガラシャについて論じている本。第一章の『明智光秀本能寺の変』では、呉座勇一氏が明智光秀の生涯を論じている。83ページほどの内容だが、これを読めば明智光秀についての最新知見が得られ、おぼろげながら彼の人物像も見えてくる。簡潔で読みやすく、光秀について知りたい読者は得るところが多い論考になっている。

 

光秀には「古典的教養にすぐれた保守的な常識人」といったイメージがあるが、光秀が伝統や権威を重んじていたことを明確に示す一次史料はない、と呉座氏は指摘している。むしろ一次史料からは光秀の別の一面がみえてくる。この論考のなかで、呉座氏は東大寺興福寺の戒和上の座をめぐる争いについての光秀の発言に注目する。この争いについて、東大寺は古文書や『東大寺要録』を証拠として集めていたにもかかわらず、光秀は132年前の文書は証拠として認められないと一蹴した。光秀は信長上洛の二年前に当たる永禄九年よりも古い文書は採用しないとも言っているが、つまりは織田権力以前の権力者が出した裁定は無効なのだ、という主張だ。ここに、伝統的権威を尊重する姿勢は認められない。130年にわたって興福寺がずっと戒和上を務めているのだから興福寺が正しい、という主張は実力主義の肯定だ。これは光秀というよりは信長の統治姿勢だろうが、光秀は信長のやり方に忠実だったということになる。

 

さらに、比叡山焼き討ちの十日前に光秀が和田秀純に出した書状にも言及している。この書状には仰木を「撫で斬り」にするとの一文がみえる。つまりは皆殺しにするとの宣言である。光秀が比叡山焼き討ちに反対したという証拠は一次史料にはなく、かえって「手段を択ばぬ残酷さ」が見てとれる、と呉座氏は書いている。

比叡山焼き討ちの後、信長は光秀に近江国志賀郡を与えているが、これはほぼ大名に等しい地位を与えたことになる。ここまで出世するのは「積極的に焼き討ちを行った光秀への論功行賞に他ならない」と呉座氏は指摘する。とはいっても光秀はたんに残酷だったわけではなく、比叡山周辺の有力武士への調略も評価されただろうと呉座氏は推測しているが、結局光秀と信長は相性が良かったのだろう。信長に忠実だったからこそ、光秀は中途参入組にもかかわらず異例の出世を遂げた。

 

元亀四年二月に義昭が挙兵した時、光秀はただちに義昭方の鎮圧に動いた。義昭と信長の争いであれば信長が有利であり、信長に属した方が立身出世の可能性が拓けている。そうした冷静な判断が働いたのだろう。そこから浮かび上がるのは、穏和な常識人ではなく、進取の気性に富んだ野心家としての光秀の姿だ。(p48)

 

明智光秀の「進取の気性に富む」一面としては「家中軍法」を定めた点があげられる。本稿でもこの軍法にふれているが、軍法も軍役規定も存在しなかった織田家中において、光秀ははじめて軍役の定量化をはかった。知行100石につき6人の兵士を出すこの規定を呉座氏は「人格的な結びつきに依拠して軍事動員を行う室町幕府的なあり方から五歩踏み出したという意味で、織田政権の中では画期的な試み」と評価する。光秀は近世封建制の萌芽ともいえる軍役システムをつくったわけだから、その光秀が室町幕府体制の復活をめざすため本能寺の変を起すことはないのではないか、という見解も示される。こう見てくると、やはり光秀が信長よりも保守的で常識人だった、と評価するのはむずかしそうだ。

 

なお、『老人雑話』には光秀のいい人ぶりを示すエピソードが紹介されている。

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