明晰夢工房

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【感想】天野純希『燕雀の夢』

 

燕雀の夢 (角川文庫)

燕雀の夢 (角川文庫)

 

 

織田信秀武田信虎松平広忠など「英雄の父」を主人公とした短編集。6つの短編はどれも読みごたえがあるが、中でも『虎は死すとも』と『楽土の曙光』の二編がとくに印象に残った。

 

『虎は死すとも』はタイトル通り武田信虎の物語だが、この短編は甲斐を追放されたのちの信虎の後半生を描いている。当主の地位を失い、何の権力ももたない信虎がそれでも政治への執着を捨てることができず、今川家に赴いて調略のまねごとをしてみたり、京で将軍家の争いにかかわってみたりする姿は滑稽ではあるもののどこか憎めない。当主としてかなりの器量を持っていたはずの信虎が、その地位を失ってみると今度は息子の信玄が眩しくみえる。最後までもがいてはみたものの、信虎の後半生には何もいいところがない。英雄になりきれなかった男の悲哀がここにはある。

 

『楽土の曙光』の主人公は家康の父・松平広忠。あまり小説の主人公になることのない男にスポットを当てたこの作品も、独特の味がある。広忠の生涯は、かんたんに言えば今川義元織田信秀とのはざまで苦労し続けた人生だった。知名度が高いとは言えないこの男にも、竹千代を信秀にさらわれても今川陣営にとどまるくらいの意地と度胸はあった。一代の風雲児だった父・清康には及ばないとしても、苦境にあって松平家をどうにか存続させた広忠にも一定の器量はあったように思える。いや、そもそも男が一代で何をなせるかは、器量だけで決まるわけではないだろう。家康が広忠の立場であったなら、どれほどのことができただろうか。結局、弱小の一領主として苦労し続ける人生だったのではないか。広忠はあまりに早く父を失い、家臣すらも周囲の大勢力に通じているという不利な状況のなかで、懸命に生きた。この作品における広忠の最期には虚しさを覚えるが、家康に松平家を託したことだけでも意味のある生だったといえるだろうか。

 

最後の作品となる『燕雀の夢』は秀吉の父・木下弥右衛門を主人公としている。弥右衛門は上昇志向の強い男として書かれていて、その意味では秀吉ともよく似てはいるのだが、この男もまた英雄になりそこねた男だ。小豆坂の戦いで傷を負って以降の弥右衛門の人生がどうなるか、それは本編を読んで確かめてほしいところだが、この男の後半生には独特の苦みがある。出世を夢見つつも何物にもなれなかった弥右衛門を秀吉がどう扱うかも見どころで、ここに秀吉のしたたかさと恐ろしさがよく表れている。弥右衛門はこの短編集の主人公のなかではもっとも小粒な人物で、それだけに大出世した秀吉との対比が際立つのだが、凡庸な人物が身の程を知ったあとどう生きていくかというテーマも本作には見え隠れしている。