明晰夢工房

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原始仏教の最もわかりやすい入門書『ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか』

 

 

1日、6時限かけて著者の授業を聞くという形式の原始仏教講座。内容はきわめてわかりやすい。ブッダの生涯を語る前に一時限目で仏教誕生以前までのインド史について解説しているのがポイントで、これを知ることで仏教の革新性がよく理解できる。

 

この本では、中央アジアに起源をもち、騎乗していて強い軍事力を持つアーリア人がインドへ侵入したところから授業をはじめている。アーリア人の独自の宗教観はカースト制度としてインドに定着し、征服された先住民族は「チャンダーラ」というアウトカーストに位置づけられる。カーストはすべて生まれで決まり、最上位のカーストであるバラモンには穢れがまったくない。下のカーストに行くほど穢れが多く、身体が接触したり、下位カーストの人が作った料理を食べることで穢れは伝染することになっている。しかも見ただけでも穢れがうつることになっているので、身分の異なる人々が衣食住や職業をともにすることはまずできない。このように生理的感覚で格差が決まってしまう社会に、「四民平等の宗教」として登場したのが仏教ということになる。

 

とはいっても、仏教だけが「四民平等」を主張したわけではない。ブッダの生まれた時代、血筋を重視するバラモン教を批判する宗教は仏教以外にもたくさんあり、これが時代の潮流だったようだ。これらの宗教を「沙門宗教」とよぶが、沙門とは「努力する人」という意味だ。安らかな境地、仏教における真の幸福は努力次第でどんな人でも得られると主張したところに、仏教の画期性があった。古代インドはカースト制度が宗教によって成り立っていたため、身分格差をのりこえるには社会ではなく宗教を改革しなくてはならなかった。

 

もしカーストが神様などとは関係ないただの社会制度だったら、お釈迦様は社会改革をしたかもしれません。しかし、インドの場合は制度そのものが宗教の上に乗っていたので、それを否定するためには、新しい宗教を作るしかなかったのです。ここに仏教という宗教の生まれてきた理由と本質があります。(p39)

 

原始仏教には神がかった要素は何もない。ブッダはもともと悩める一人の人間であって、老病死という避けがたい苦しみにどう対処すればいいのか悩みぬいて、王族の地位を捨て出家した。6年間も苦行を続けたのも、まずは自分が救われたかったからだ。悩める人を教え導きたいなどという余裕はない。なんらかの神通力を授かっているわけでもない。とにかく生きているのがつらく、そのつらさをどうにか乗り越えたいと苦しんだ末にたどりついたのが悟りの境地だった。仏教は人を救えるほど余裕のない人のための教えであることがよくわかる。

 

もともとお釈迦様は自分が苦しくてたまらず、やむにやまれず出家したのです。「よし、新しい宗教を作って民を救済しよう」などというつもりで出家したのではありません。家柄、身分、血筋や財産といった、みせかけの飾りつけではあらがうことのできない、究極の苦しみに身もだえし、そこから何とか抜け出そうという必死の思いで俗世を捨てたのです。

ですから艱難辛苦の果てに目的を達成したときはホッとして、自分の苦しみは終わった、あとはこの安らかな状態で寿命がくるまで淡々と生きて、淡々と死んでいこうと考えたのです。「世のため人のため」という思いはまったくありませんでした。

 

このようなブッダの姿は、他のどの宗教の開祖よりも身近に感じられる。だがブッダの人生はここで終わらない。梵天ブラフマー)に頼まれ、人々の苦しみを救うために布教をはじめ、教団を作ることになった。本書によれば、この時点で仏教は自己救済の教えから慈悲の宗教へと変わったことになる。

 

仏教の組織サンガ(僧団)は、ブッダとその弟子5人からはじまった。このサンガを作ったことが、本書ではブッダ最大の功績とされる。サンガは修行一本に打ち込むために托鉢によって維持されるが、これによって他者に生かされているという謙虚さを養えるとされる。それぞれのサンガは「インターネット形式」でどれもフラットな関係性であり、そこにヒエラルキーは存在しない。だからサンガに入ることで偉くなりたい、人に勝ちたいという煩悩から解放されることになる。この本によればこの形式の仏教はスリランカや東南アジアで今でも残っているそうだが、それだけブッダの考えたサンガの仕組みがすぐれているということなのだろう。

 

原始仏教の内容とは少しずれるが、この本では「日本的サンガ」の必要性を説いている箇所がある。たんに修行したい人のためだけでなく、生きづらさを抱えた人の受け皿としての僧団があるべきではないか、ということだが、書店に多く出回っている仏教関連の本を読むだけでは生きづらさを十分には解消できない、と著者は考えているようだ。仕事をしながら生きるよすがとして日々の生活の中に仏教を取り入れるやりかたを「ナイトスタンド・ブディスト」と呼ぶそうだが、ナイトスタンド型では自己鍛錬が十分にできず、なにより社会に居場所がないと感じている人を救うことはできない。現代の駆け込み寺を作るのは困難が伴うだろうし、著者もそのような組織が立ち上がることを期待するのみだが、やはり俗世間から距離を置かなければ本来の仏教は実践できないのだろうか。