明晰夢工房

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鉄砲一挺60万円、人間一人が10万円~……戦国時代の経済を俯瞰できる『戦国大名の経済学』

 

戦国大名の経済学 (講談社現代新書)

戦国大名の経済学 (講談社現代新書)

 

 

戦国大名の領国経営にはどれくらいお金がかかるのか?あるいは収入はどれくらいなのか?こういう疑問を持ったことがないだろうか。銭がなくては築城も戦争もできない。本書『戦国大名の経済学』は、戦国大名の平時の財源や支出・戦時の収支など領国経営の実態について解説しているだけでなく、楽市楽座の実行状況、鉱山経営、貨幣の流通状況など幅広いトピックを紹介しているお得な一冊だ。

 

まず一章「戦争の収支」を読むと、装備品の費用が現在の価値で記されている。たとえば鉄砲一挺が50~60万円、刀が3~4万円といった具合だ。もっとも刀には高価なものもあり、高いものだと600万円程度のものもある。これは武器というより美術品としての価値だ。こうしてみるとやはり鉄砲は高い。長篠の戦いでは武田家も鉄砲を軽視していたわけではないが、やはり織田家は経済力が高いため多くの鉄砲をそろえられたということもわかってくる。

興味深いのは人間一人が10~70万円と推定されていることだ。武田家が乱取り(略奪)で連れ去った人間を連れ戻すために、これくらいの金額が必要だったらしい。身代金をせしめることができるから、乱取りは儲かったのだろう。『甲陽軍鑑』には乱取りのおかげで甲斐は豊かだったと書いてあると『雑兵たちの戦場』では紹介されている。

 

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治水や築城・土地開発や道路の整備など、領国経営はとかくお金がかかる。だが、戦国大名にとりとくに重要な出費が朝廷や幕府への献金、つまりは賄賂だった。3章「戦国大名の平時の支出」では、伊達成宗が足利義政に銭三万疋を献上した事例を紹介しているが、これは現在の価値では2000万円程度になる。伊達家の当主は代々将軍の名前をもらっているが、伊達家と室町将軍家が親しかったのはこのような賄賂のおかげなのだ。伊達稙宗は将軍から守護に任じられているが、こうした権威を獲得するためにも賄賂は欠かせないものだった。

 

 賄賂は現代社会では忌み嫌われ、しばしば、手を染めた者は最大限の非難を浴びる。しかし、中世ではそのような罪の意識はまったく無いどころか、賄賂を贈ることのできるだけの財力を有することは美徳とすら見られていたような節がある。権力者たちは自らに有利な裁定を引き出すために、何のためらいもなく、朝廷や幕府の意思決定権者やその実務を担う官僚たちに惜しみなく賄賂をばらまいた。否、むしろ、そうでもしないと権力闘争を勝ち抜けない社会だった。戦国時代は朝廷も幕府も弱体化していたとはいえ、官位や守護職任免の実権は握っており、それによって自らの権威を荘厳しようとする大名は少なくなかった。(p100)

 

成宗は二度目の上洛で、実に総額五億円相当の金品を面会した人々にばらまいている。成宗の経済力は相当のものだったようだ。本書では成宗の経済力の背景として、陸奥の金や北方との交易があったと推測している。

 

信長の楽市楽座について知りたい読者には、5章「地方都市の時代」が参考になるだろう。しばしば「中世の否定」と評価される楽市楽座だが、本書によれば信長がこの政策を全領国に拡大しようとしていたかは怪しいという。信長は朝倉氏を滅ぼして越前国支配下におさめたのち、北庄では旧来の商人の特権をそのまま安堵している。これは楽市楽座とは真逆のやり方だ。戦乱直後の混乱を収めるためには既存の秩序をそのまま認めるしかなかったという事情があったようだが、楽市楽座は一貫した政策ではなく、必要な場合にだけ持ち出されるものだったようだ。

 

以上のようにみてくると、織田氏が中世的な商業システムを全面排除しようとしたというのは、正しい評価とはいえないだろう。実際には旧来のシステムをそのまま温存することも少なくはなかった。しかし、それをもって信長が中世的な因習に固執したとか、旧来的な権力に過ぎなかったと批判するのも酷だろう。戦乱で社会が混乱する中、新たな征服者としての統治に乗り出すことの多かった信長には、迅速な戦後処理による世情の鎮静化が喫緊の政策課題であったはずである。何より、当地の民衆がそれを求めたに違いない。

特に旧来の権益維持への強い要求があった場合、それを認めることで安心させるのが一番の得策であったはずである。それはより強大な権力を形成した後の豊臣政権下でも同様だった。信長は、革新性のイメージが先行しがちだが、突飛な政策でいたずらに社会を混乱させたのではなく、そのごく一部を除けばきわめて現実的な政策を的確に選択しているた、むしろそう評価すべきだろう。信長の卓越した経済感覚とは、このような姿勢にこそ表れているのである。

 

楽市令は安土で出されたものがもっとも有名だが、一から集客が必要だった安土と、既存の町である北庄では取るべき政策が異なっていた。その場その場で必要な政策を実行していた信長は、本書に書かれている通りリアリストと評するのが妥当だということだろうか。