明晰夢工房

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【感想】ヤマザキマリ・中野信子『パンデミックの文明論』

 

パンデミックの文明論 (文春新書)

パンデミックの文明論 (文春新書)

 

 

人類は何度もパンデミックの危機に直面しているが、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス帝の時代にも大規模なペストの流行があったことはあまり知られていない。「アントニヌスのペスト」ともよばれたこの悪疫により、一千万人もの命が奪われたともいわれる。この本の第二章では、この「アントニヌスのペスト」がローマ社会に及ぼした影響について論じられている。

この時期以降、ローマ帝国では急速にキリスト教の信者が増えている。キリスト教徒が道端で倒れている病人を助けたためだ。ペスト流行により生活インフラを担う商人が倒れ、経済危機が訪れローマ帝国が衰亡へと向かうのとは逆に、キリスト教は勢力を拡大することになった。

 

ヤマザキマリに言わせれば「カルト宗教的な存在」だったキリスト教が、この時代、奴隷だけでなく一般人にまで信者を幅広く獲得するようになったのはなぜなのか。危機に瀕すると人間は善なるものを求めるからだろうか?とヤマザキマリは問う。だが、どうやらそんな理由で人々がキリストを信じるようになったわけではないらしい。中野信子の答えはこうだ。

 

危機に際しては、善なるものであるかどうかを吟味する前に、理性で判断するのを放棄するようになる、という傾向が強くなりますよね。理性の代わりに、勘だとか、情報の分かりやすさだとかに頼ってしまうようになる。というのも、正しいかどうかの検証には、時間と労力というコストがかかるからです。危機に際しては、それにコストをかける余裕がなくなるため、平時の余裕のある冷静な状態における判断とは異なる、極端に言えばあり得ない選択をしてしまったりすることも十分起こり得ます。

実は「真・前・美」という三つの価値は、脳のほぼ同じところで処理されているんです。その領域は進化の過程ではかなり遅い時期にできてきたところなので、あまり効率的には働かない──例えば、酸素や栄養、睡眠の不足、アルコールの摂取などで、容易に働きが落ちてしまう。

そういうときは、いつにもまして対象を冷静に吟味することなく、直感でわかりやすいリーダーを選んだり、難しいことを四の五の言わずに手っ取り早く道を示してくれそうな宗教家に頼ったり、ということが起こりやすくなるのではないでしょうか。(p68)

 

脳は大食らいの臓器で、身体全体のカロリー消費量の四分の一から五分の一を占める。危機の時は逃げたり戦ったりするために体にリソースを分けないといけないから、脳に回すカロリーはカットされる。この状況下ではとくに前頭葉の働きが抑えられ、理性的な判断が下しにくくなってしまうのだ。脳が思考を節約するため、よく考えずに頼りがいのありそうなリーダーに従ってしまうことになる。

このように、この本ではヤマザキマリが歴史上から取り上げた事象に中野信子脳科学の見地から解説する箇所が多い。パンデミックの状況下において人気の出るリーダー像について、さらに二人は対話を重ねている。

 

ヤマザキ 結局、危機的状況で求めるのは、ひとときの安心ってことなんですかね。それこそメルケル首相の「レジに座ってる方、ご苦労さま」っていうカメラ目線の発言に大勢の人がコロッといっちゃうわけですから。

中野 人間って、二千年たってもあまり変わらないんですね。そういうのに弱いんだなと改めて思います。 今回のコロナ禍では、地方自治体の若手の首長の奮闘ぶりがマスメディアでしばしば取り上げられましたが、言葉の使い方やアピールの仕方など、人々に安心感をもたらすことができるようにそれぞれ工夫されてましたね。即断即決のイメージを強調するなどの方法は見事で、ああ、この人についていこうと思った人たちも少なくないだろうと思いましたね。

そういえば、科学哲学者の村上陽一郎さんが、たしかこんな意味のことを書いていらっしゃいます。四十年近く前の岩波新書『ペスト大流行』なんですけれど、「ありとあらゆる人生の悪行を重ねてきた人々も、そのペストのときに突然慈善を行うようになった。それは自省の精神を取り戻して善行の愛好者に変身したからからではなく、多くの場合、目の当たりにする災禍に恐れおののいて、なんとか破局から身を逃れようとしたからであった」──。

人々がキリスト教に惹かれたのも、そうすれば自分は救われるかもしれないという虫のいい期待があったのかもしれません。

 

そういえば私も、最近は仏教書をよく読むようになった。『反応しない練習』を読んで原始仏教に興味を持ったからだが、コロナ禍で疲れた心を宗教が救ってくれるかもしれないという淡い期待もあっただろうか。だが生憎というか、原始仏教は安易な救いをもたらしてくれるものではない。話題になっていた『なぜ今、仏教なのか』も少々私には難しかった。もっと楽な救済を求めれば、その先はカルトへと続いているのかもしれない。そういえば『復活の日』でも、パンデミック下の日本ではカルト宗教が熱烈な支持を集めていた。

 

復活の日

復活の日

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video