明晰夢工房

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森山至貴『10代から知っておきたいあなたを閉じ込める「ずるい言葉」』に見る「社会学者が嫌われる理由」

 

 

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この本は少し前に「裏表紙がクソリプ大集合みたいな本」としてツイッターで話題になった。「あなたのためを思って言っているんだよ」「どちらの側にも問題あるんじゃないの?」「悪気はないんだから許してあげなよ」などなど、この本で取り上げられている「ずるい言葉」は相手の気持ちを解きほぐすことは一切なく、ただ口をふさぐ効果しかないという意味において、確かに「クソリプ」だ。言われる側はたまったものではない。

本書『10代から知っておきたいあなたを閉じ込める「ずるい言葉」』では、こうした29の「ずるい言葉」を取りあげ、これらの言葉にどんなおかしな考え方が隠れているかをあぶり出す。ここの解説はていねいで、特に専門用語も使われていないので10代でも理解できる内容になっている。さらに「ずるい言葉」の背景にある価値観や考え方から抜け出すための処方箋まで示されている。それぞれのトピックについてもっと深く知りたい読者のために、関連用語の解説もついている。親切設計だ。これならついてこれない人は少ないだろう。

 

それぞれの「ずるい言葉」についての解説はわかりやすい。たとえば、「どちらの側にも問題あるんじゃないの?」については、「どちらが正しいのかを考えず、何もせずに正しい人になりたい」という動機から出てくると説明される。「人命救助は正しい」と考える人は溺れている人に浮き輪を投げるように、正しい人になりたいなら正しさを実現するため行動しなくてはならない。だが、何もせずに正しい人になる方法がひとつだけある。それが、正しくない人を批判することである。「どちら側にも問題がある」なんて言い方も、「あなたは正しくない」と指摘するための安易な物言いなのだ、というわけだ。そうやって思考を放棄し、「何もしない、特に正しくもない人」にならないためにもどちらが正しいのかをちゃんと考えましょう、と著者は提案する。

 

この本での29の「ずるい言葉」についての解説はおおむね納得できるものであり、こうした言葉で反論を封じられがちな人にとっては有益な内容になっていると思う。また、これらの「ずるい言葉」にはついこちら側が言ってしまいそうなものもあり、安易な物言いで誰かを黙らせないためにも、この本を読んでおく意味はある。最近ネットの一部では社会学が嫌われがちで、社会学無用論を唱える人までいるくらいだが、少なくともこの本の内容は有意義なものだと感じた。著者は社会学者だが、学問の成果がこうした書籍として結実するなら、やはり社会学は世の中に必要な学問といえる。

 

以上見てきたとおり、この『10代から知っておきたいあなたを閉じ込める「ずるい言葉」』が良書であることは間違いない。だが、正直この本を読んでいて、少々押しつけがましさを感じる部分もあった。それは「心の中で思ってるだけならいいんでしょ?」について解説している箇所だ。著者はこの「ずるい言葉」について、以下のようなやりとりを例に挙げている。

 

 「落合、地下鉄の乗りかえに関する自由研究で賞をもらったんってね」

「やっぱりオタクはやることが細かいね。正直気持ち悪いと思うけど」

「そういう考え方はよくないと思う」

「建前としてはね。でも心の中で思ってるだけならいいんでしょ?

 

この例では「思ってるだけならいいんでしょ」と言いつつ実際に「気持ち悪い」と口に出してしまっている。著者が指摘するとおり、これは確かに問題だ。失礼だとわかっているなら言わなければいい。だがこの話の本題はそこではない。著者の森山至貴氏が問題視しているのは、「思っているだけならいいんだろ」と開き直るその態度だ。この態度には、隠しておくべきその本音を本当は言ってやりたい、という気持ちが隠れている。言ってはいけないことをわざわざ言ってやりたくなるのは、多くの人が実は本音が間違っているなんて思っていないからだ、とこの本では解説されている。

 

口にすれば人を傷つける本音を、人はただ心の中に秘しておくだけではいけないのだろうか。著者は「言ってはいけない本音」について、このように考える。

 

建前はいつも大事で、建前に反するような本音はやはりよくない、でよいのではないでしょうか。 プリンをこの場で食べたいと思うことは、実際にしなければ建前と共存可能な本音でしょうが、なにかにくわしい人を気持ち悪いと思うべきでないという建前は、気持ち悪いと思う本音と共存できません。だとすれば、この本音を自ら疑ったり、正したりする以外に取る道はありません。

「心の中で思っているだけ」を厳格に守って人を傷つけないのももちろん大事ですが、「心の中でしか思ってはいけない」ことをそもそも思わずにすむように自分をつくり変えていくことも大事だと、私は思います。

(p158)

 

太字の個所について、私は正直「情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」レベルの厳しさではないか、と感じた。確かに本音レベルから変えるほうが望ましいことはある。特定の民族やマイノリティに対する偏見は持たないほうがいいに決まっているし、「産後うつは甘え」といった言説にしても「言わなければいい」という問題でもない。本音レベルでひどい考えを持っているからこそつい口に出てしまうということもあるし、言葉にしなくても失礼な考えが顔や態度に現れそれが相手を傷つけることもある。差別や抑圧につながる本音は、変えられるなら変えるのがベストではあるだろう。

 

だが、上記の例でよくないとされている本音は「細かいオタクはなんか気持ち悪い」というものだ。これは言えば失礼に当たるのは当然だが、なにかにやたらと詳しい人を「気持ち悪い」と感じる本音までも変えなくてはいけないだろうか。そこを変えるべきだ、というのは、私にはかなり強めの介入だと感じられる。そこまで人の内心に介入していいのだろうか。私は、人は正しくないことを考える自由もある、と思っている。だから正しくない本音を変えるべきだ、という主張には抵抗を感じる。人の心の正しくない部分、闇の部分をすくいとって表現するのが文学の役割のひとつだと思っているので、私にとって文学というジャンルは大事だ。

それに、そもそも本音とは変えられるのだろうか。特定の民族や集団に対する偏見は、相手をよく知ることに努めれば変えられるかもしれない。だが、「細かいオタクはなんか気持ち悪い」みたいなものは、生理的感覚に近いのではないか。反差別を掲げている人ですら、アニメ愛好者への侮蔑を恥ずかしげもなく公言したりすることがある。表向きの言動だってなかなか変えられないのに、「なんか気持ち悪い」という内心まで変えることは困難ではないだろうか。そういう嫌悪感も、「これを気持ち悪いなどと思ってはいけない」と自分に言い聞かせ続ければ変えられるのだろうか?そこまでストイックに自分と向き合える人は、ごく少数ではないかと思う。「なんか気持ち悪い」という感覚に対しては、「言わなければいい」以上のことを求めるのは難しいのではないだろうか。「言わなければいい」ですら、守れない人がいくらでもいるのだから。

 

「望ましい社会を作るために、(「ずるい言葉」に見られるような)言動や表現、内心を改めるべきだ」と、著者はこの本を通じて訴えているのだと思う。社会学者が皆こうではないだろうが、これを読んでいると社会学は他の学問ジャンルに比べてこちらへの介入の度合いが強い、と感じるのも確かだ。もちろん社会学だけが人々の生活に介入するわけではない。コロナ禍の現在において、もっとも生活に深く介入しているのは医学だろう。私達は外出時にマスクをつけ、三密を避け、つねに手指を消毒していないといけない。こうした生活を煩わしいと思っている人は多いだろう。だが少なくとも医学は「マスクをつけるなんて面倒だという本音を変えるべきだ」とは求めてこない。こっちがどんな気持ちだろうと、マスクをつければそれでいいのだ。だが社会学、少なくともこの本は「醜い本音は言わなければいい」ではすませてくれない。醜い本音をきれいなものに変えるよう求めてくる。変えたほうがいい本音もあると思うが、発言だけでなく心の中まで変えていくのはかなりハードルが高いとも思う。

 

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先日、社会学の研究者が「銀河英雄伝説をリメイクするなら男女役割分業の描き方は変更せざるを得ない気がする」と発言したことで話題になった。これなども、社会学者が表現を変えるよう求める一例だ。ヤン夫婦の描き方が現代の視点から見て違和感がある、という問題提起自体がおかしなものだとは思わないが、「変更せざるを得ない」はかなり強い言い方だ。男女役割分担といえば、社会学者の千田由紀氏が「キズナアイが頷き役という女性の性役割を割り振られている」と批判したことも記憶に新しい。このように、社会学者は望ましい社会(この場合は男女平等社会)にふさわしくない表現を批判し、時には変えるよう求める。社会学者が皆こうではないだろうが、他ジャンルの学者に比べ、人々の言動や表現、価値観への注文が多い人もいると感じられる。社会学者が嫌われる原因があるとすれば、このあたりに一因があるように思う。社会を変えようと他者に働きかけるなら、時に軋轢が生まれるのは必然ということだろうか。

 

もちろん、嫌われること自体が悪いわけではない。世の中には嫌われることを覚悟で言わなければいけないこともあるし、社会学者が社会をよくするためにした発言を嫌う方が器が小さいのかもしれない。ただ、私を含めて多くの人は、それが社会のためであれ、内心を変えるよう求められることを煩わしく感じる。この煩わしい、という本音も望ましくないものなので変えるべきだろうか。そこまで求められると、私のように怠惰な人間は別に言わなければいいんでしょ、と「ずるい言葉」を発したくなる。だからこそ、なかなかこうした物言いがなくならないのだろう。私の場合、今のところは本音の部分はほっておいて、「ずるい言葉」で人の口を封じる側に回らないようにするくらいがせいぜいのようだ。