明晰夢工房

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【感想】千葉ともこ『震雷の人』

 

震雷の人

震雷の人

 

 

安史の乱の混乱に巻き込まれ、敵味方に分かれた兄妹の運命を描く大河小説。主人公の采春は男以上に剣や弓を操る女傑で、安禄山の眼前では足で弓を射る腕前を披露する場面もあるなど、武侠小説のような趣もある。

采春の婚約者の顔季明は書家として有名な顔真卿の一族で、文官志望の若者だが、安史の乱が始まると安禄山側の武将を罠に嵌める知略の冴えも見せる。季明の働きに呼応するように采春も戦場で活躍するのだが、季明の父・顔杲卿は顔真卿とよく似た硬骨漢であったため、季明もまた唐に殉じた父と運命を共にすることになる。

 

季明の最期を知らないまま、采春が彼を助けようと慌てて一人洛陽へと旅立ってからが本作の本番だ。ここからのキーマンは安禄山ではなく、その次男の安慶緒。武勇に長けているが暗い目を持つこの男の運命が、意外な形で采春と交わる。安禄山の長男が殺されて以来後継者争いが起きていて、人望がない安慶緒は後継者から排除されようとしている。

この安慶緒がなかなか面白いキャラクターになっていて、実はこの男は自分の人望のなさも、能力のなさも自覚している。それでいながら、暴君と化した父・安禄山を反面教師とし、自分を変えようと決意することになる。もともと人を変えるには暴力によるしかないと考えていた野卑な安慶緒がなぜこうなったのか、がこの作品の読みどころのひとつでもある。

 

一度は安禄山の建てた燕に身を寄せた采春は、この国が唐よりもずっと風通しのいい国であることを知る。ソグド人など異民族の多い燕軍では女も戦力として期待され、采春も公平な扱いを受ける。安守忠のように采春を頼りにしてくれる武将もいる。采春にとって燕の居心地は悪くない。だが皇帝の安禄山は病の苦しみのせいか、虫けらのように人を殺す。采春は唐にも心から従ってはいないが、燕に骨をうずめる気にもなれない。采春は顔真卿のような唐の忠臣としてではなく、安慶緒のような燕の中心人物としてでもなく、あくまで一人の人間としてどう生きるべきかを己に問い続ける。

 

一方、采春の兄・張永は一貫して唐の武人として働くことになる。唐に忠節を評価された顔真卿とともに平原を立つ張永の背中を押したのは、母の言葉だった。采春がいなくなったことで一時は激しく取り乱していた母だったが、やがて正気を取りもどし、別人のようにたくましくなる。長引く戦乱は人を変える。非常時には人の本質がむき出しになるようだ。変わるといえば、長い間張永を妬み続けていた大隊長韋恬も意外な一面を見せることになるが、最後の最後でこの男の本性が明らかになる。危機が人を生まれ変わらせることもあれば、そうでないこともある。

 

本作では、安史の乱のディテールがかなりくわしく書き込まれている。親を失った若い女は人買いに買われ、奴隷にされる。籠城して食料が尽きた城では老人が殺されて食われる。唐の皇族としては人望が高く、庶民にも慕われていた建寧王も悲惨な最期を遂げてしまう。戦乱は人の獣性を解放し、多くのものは自分の欲望に押し流される。だからこそ、己の信念に従う采春と張永の実直さが強く印象に残る。そしてこの二人と安慶緒の生きざまの陰には、つねに顔季明の姿がある。一見武力だけが時代を動かすかにみえる戦乱の時代に、人を動かすのは文字の力だと信じ続けたこの書生の姿が、一筋の光を投げかけている。