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【感想】ドラマ『ヴァイキング』(シーズン1)はヴァイキングの残酷さとの距離の取り方が絶妙な歴史ドラマ

 

 

Vikings: Season 1/ [DVD] [Import]

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  • アーティスト:Vikings
  • 発売日: 2013/10/15
  • メディア: DVD
 

 

このドラマを観る前は、感情移入が難しいのではないかと思っていた。ヴァイキングを主人公に据える以上、どうしても略奪を描かざるをえない。ヴァイキング側からすれば乏しい農業生産力を補うための行為とはいえ、略奪は一方的な暴力でしかない。そこに一切罪悪感など持たないヴァイキングを主人公にして、視聴者は楽しめるのだろうか。カナダヒストリーの製作したドラマ『ヴァイキング』は視聴者が倫理的葛藤を引き起こさずドラマに入り込めるよう、周到な配慮がなされている。

 

まず、主人公のラグナル・ロズブロークの人物造形が非常に巧みだ。ラグナルもヴァイキングの一員ではあり、率先して略奪は行う。初めてイングランドにたどりつき、リンディスファーン修道院に押し入ったときは史実通りここを襲撃している。だが、ラグナルは善人ではないものの、やみくもに暴力を用いることをよしとする人物でもない。リンディスファーンではノルド語を話せる修道士・アセルスタンの命を助け、連れ帰って奴隷にしている。

ラグナルがアセルスタンを助けたのは、使いものになると思ったからだろう。言葉の通じるアセルスタンからイングランドの情報を聞き出し、さらには交渉役として使う気もあったかもしれない。だが言葉を交わすうち、やがてラグナルはアセルスタンとの間に奇妙な友情を築き、奴隷の身分から解放している。それどころか、2回目のイングランド遠征のときにはアセルスタンに鍵を預け、家の留守すら任せている。ラグナルは信仰の違いを超えてイングランド人とも理解し合える度量の広さがあり、アセルスタンもラグナルの信頼に応えている。

 

ラグナルという男のおもしろさは、反抗的なものは仲間でもあっさり殺すことがあるのに、イングランド人に対してはまず交渉を持ちかけるところだ。2回目のイングランド遠征で、海岸でノーサンブリアの兵士に出会ったときも、まず隊長の誘いに乗り王に会おうとする。この時は結局戦いになったが、それは仲間が隊長を信用しなかったからだ。ラグナルは必要なときは勇敢に戦うが、避けられる戦いは避けようともする。教会に押し入っても、抵抗しなければ傷つけないと約束する。もちろん宝物はしっかり奪っていくのだが、無抵抗の人物まで殺したりはしないので、視聴者はいつのまにか略奪者の側のラグナルに惹きつけられていくことになる。

 

ラグナルの妻・ラゲルサの存在も極めて重要だ。ラゲルサは男勝りの気性の持ち主で、ラグナルが留守のときに家に押し入った賊を独力で斬り捨てるほど強い女戦士でもある。腕が立つラゲルサは2回目のイングランド遠征に加えてもらうが、首長ハラルドソンの手先であるクヌートがサクソン人の娘を犯そうとしているのを目撃してしまう。ラゲルサがクヌートを咎めると、クヌートは今度はラゲルサを犯そうとする。だがラゲルサがここでおとなしく屈するはずもなく、逆にクヌートを刺し殺してしまう。

おそらくヴァイキング行のなかで、凌辱など日常茶飯事だっただろう。このドラマはそこから目をそらすことなく、残酷な現実もきちんと描いている。だが、ヴァイキングの残酷さが100%肯定されることもない。ラグナルは無用の暴力を用いず、ラゲルサは暴行に歯止めをかける。このバランス感覚が絶妙だ。ラグナルもラゲルサも生業として略奪を行っていて、そこに葛藤を感じることはまったくない。だが、視聴者がついていけなくなるほどの蛮行を行うこともない。この夫婦は、視聴者が感情移入できるぎりぎりのラインを綱渡りで生きている。

 

ヴァイキングの暮らしと文化

ヴァイキングの暮らしと文化

 

 

このドラマで描かれているヴァイキングの姿は、どれくらい史実に基づいているのだろうか。レジス・ボワイエ『ヴァイキングの暮らしと文化』によれば、ヴァイキングの実態とは以下のようなものだ。

 

とにかくきびしい時代であったのだ。西欧であれ、近東であれ、商人が平穏に交易に旅立ったとは思えない。値切ったり、売買したり、物々交換したり、自分の財産を守る能力が同時に必要とされたのであり、いざというときには情け容赦なく、なんとしてもチャンスをものにしなければならなかった。「片手に切断銀をはかる秤、片手に両刃の長剣」というイメージをこれまでなんども用いてきたが、そこには、ヴァイキングというものが象徴されているように思われる。秤と剣のいずれを用いるかは、そのつど時と場合に応じて決定された。安全のために地中に埋められた品物や「宝物」が、スカンディナヴィア各地で数多く出土してはいるが、かれらの略奪活動を立証できるようなものはさほど多くない。これらとちがって、窃盗や略奪よりも純然たる交易活動を立証しているのは銀貨であろう。各地の銀貨がまさに山のごとく大量に出土し、造幣されたままのものもあれば、切断されたものもある。切断されたのは、必要な分だけを切りとるためだった。いうまでもないが、取引は貴金属の重量でなされたのであり、ある特定の貨幣によってではない。特定の通過を基準にするには、平均的なヴァイキングの行動範囲があまりにも広すぎたのだ。ヴァイキングは商人として定義されるべきであり、戦士であったのは偶然にすぎない。

 

これが正しいとすれば、ヴァイキングは戦士よりも商人としての性質が強いようだ。ラグナルたちの一団はこうではなく、戦士としての性質がより強いが、イングランド側に交渉を持ちかけるラグナルの姿勢には「商人」としての一面を見てとることもできる。ラグナルにとって戦いは金品を得るための手段であって、それ自体が目的ではない。

 

ラグナルの故郷・カテガットに残されたアセルスタンがドラマのキーパーソンであることの意義も大きい。この人物を通じて、視聴者はラグナル、そしてヴァイキングたちの価値観を相対化することができる。リンディスファーン修道院の生き残りであるアセルスタンは、暴力とは縁のない人生を生きてきたため、カテガットのヴァイキングの風習に驚くシーンがしばしばある。ラグナルが首長ハラルドソンとの対決に勝利をおさめたのち、ハラルドソンに仕えていた女奴隷が死を選んだため「死の天使」に喉を切られるシーンがあるが、目をそらそうとするアセルスタンにラグナルの息子は「ただ死ぬだけだろ」と平気で言う。ここでアセルスタンは戸惑いの表情をみせる。ヴァイキングの風習が現代人から見て受け入れがたいものであるときは、アセルスタンが視聴者の気持ちを代弁してくれる。アセルスタンは終始ラグナルから大切に扱われているのだが、ヴァイキング達とアセルスタンの間には埋められない溝もある。

 

ラグナルがアセルスタンを故郷に残していったのは、農場を任せられる人物がほかにいないからでもあるだろうが、アセルスタンに略奪の現場を見せたくないという配慮でもあるだろう。ラグナルがアセルスタンを通訳として連れて行ったほうが、イングランドでの交渉はうまくいくはずだ。だが、それをすればアセルスタンはヴァイキングの味方としてノーサンブリアの地を踏むことになる。これはアセルスタンにはつらい未来になる。彼は修道士だから、略奪の手伝いをするのは神への裏切りにもなるかもしれない。そんな選択をアセルスタンにさせないところも、ラグナルの魅力のひとつであるともいえる。

 

ヴァイキングに襲撃されるイングランド側の為政者があまり良い人物でないこともまた、ヴァイキングの残酷さを中和させている。ノーサンブリア国王エラは忠実な部下を毒蛇が這いまわる穴に落として殺すし、ラグナル一行に金を払う約束も守らずだまし討ちにしようとする。国王の弟エゼルウルフは傲慢なうえ武人としては無能で、部下の忠告も聞かずラグナルたちが陣地を築いているときに攻撃しなかったため、絶好のチャンスを逃してしまう。ラグナルたちを異教徒と見下すわりにはイングランド側にはあまり立派な人物が出てこないため、ラグナルたちの勇敢さや友情の篤さが際立つ仕掛けになっている。

 

歴史ドラマの難しさは、その時代の価値観を描きつつ、かつ現代人にも受け入れられる内容に仕上げなくてはいけないところにある。ドラマ『ヴァイキング』はこれまで書いてきた通り、さまざまな手を用いて視聴者がヴァイキングの倫理観に拒否感を抱かないようにすることに成功している。この土台があってこそ、はじめて巧みなシナリオも生きてくる。題材が題材なので暴力シーンは少なくないが、そこに耐性があるならこの作品を観ないのはもったいない。確かにラグナル達ヴァイキングには獰猛な一面があり、彼らは略奪を楽しんでいる。だが彼らにも法や秩序があり、宗教もある。仲間のために命をささげる高潔な者もいれば、野心家も卑怯者もいる。つまりヴァイキングとはただの人間なのである。生身の人間としてのヴァイキングの魅力をここまで見事に描いた作品は、そうそうない。

 

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