明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【感想】今村翔吾『くらまし屋稼業』

 

くらまし屋稼業 (時代小説文庫)

くらまし屋稼業 (時代小説文庫)

 

 

松永久秀を主人公とする『じんかん』で話題になった今村翔吾の人気シリーズの第一作。希望する者を江戸の外に逃がす「くらまし屋」を裏家業とする堤平九郎が主人公。『じんかん』で発揮していたストーリー展開のスピーディーさ、キャラクター造形のうまさはここでも健在で、時代小説好きなら誰でもストレスを感じることなく、最後まで読み進めることができる。

 

平九郎の今回の仕事は香具師の一党からの足抜けを願う万次と喜八を逃がすこと。元締めの丑蔵の悪事に手を貸すのに嫌気がさしたせいで平九郎に仕事を依頼する二人だが、丑蔵は大金をばらまいて包囲網を敷いたため、容易には江戸を出られない。この包囲網をどうやって突破するか、が見どころの一つになる。平九郎の考えだした手はかなり手が込んでいて、なるほどこれなら誰でも騙されるという気にさせられる。宿場を取り締まる同心は有能で、油断ならない男なのだが、これを出し抜く手も見事だ。人間心理の隙を突くやり方は実は平九郎ではなく、仲間の七瀬が考えている。七瀬とともに平九郎を支える赤也は女装の名人で、この技術も「晦ます」のに大いに役立っている。

 

では平九郎の真骨頂は何かというと、実は戦いだ。平九郎はもともとは武士で、あらゆる剣術や槍術や柔術を使いこなす。物語後半ではこの戦闘能力を生かし、大立ち回りを演じる場面もちゃんと用意されている。一冊で頭脳戦と肉体戦をたっぷり描いたうえに、万次や喜八の過去にまつわる人情噺も入っているから、充実度が高い。とくに物語後半で喜八がみせる変貌ぶりは、悲しくも美しい。一途に妻を想うがゆえのこの悲しい結末は、人は善と悪とに振り分けられるほど単純ではない、という作者の人間観の表れでもある。

 

すぐれた時代小説はしっかりとした考証のうえに成り立つ。『くらまし屋稼業』では江戸の外へ逃がした者たちの受け入れ先についてもしっかり考えられていて、それは「村から逃散した者の戸籍を乗っ取る」というものだ。一度田畑を捨てて村から逃げたものが、心を入れ替えて戻ってきたとして、赤の他人の人生を引き継いでしまう。飢饉の影響もあり村から江戸への人口流出は著しいから、村人は平九郎が逃がした者たちを労働力として受け入れるのだ。平九郎が密約を交わした多くの村は天領であり、代官の目もあまり行き届かないので、この行為も問題にならない。物語は嘘であっても、説得力のある嘘をつくための工夫が必要だ。ここについても、本作はまったく隙がない。

 

一作目を書いた時点でシリーズ化する構想があったのか、物語終盤ではかなり目を引くキャラクターが二人登場する。拷問役人の初谷男吏と、剣の達人の榊惣一郎だ。人の肉体を壊すことに昏い楽しみを見出す男吏と、天真爛漫で戦いそのものを楽しむ惣一郎のキャラクターは一見対照的だが、実は惣一郎のほうがかなり異常な人物らしいこともわかってくる。片手を切り落した相手ともう一度戦いたいから手をくっつけてくれ、と男吏に頼む惣一郎にはぞっとする。作者のキャラクター造形のうまさが光る場面だ。二人の出番は少ししかないが、この二人が次巻以降また出てくるかと思うと先を読むのが楽しみになる。

【書評】古代蝦夷の入門書として最適の本:工藤雅樹『蝦夷の古代史』

 

蝦夷の古代史 (読みなおす日本史)

蝦夷の古代史 (読みなおす日本史)

 

 

古代日本を語るうえで、蝦夷の存在は欠かせない。奈良時代から平安時代初期にかけて、律令国家はかなりの力を傾けて「征夷」をおこなった。蝦夷はそれだけ日本にとって手ごわい敵だった。だが蝦夷と日本はつねに争っていたわけではなく、両者は交易をおこなっていて、互いを必要ともしていた。蝦夷は一枚岩でもなく、蝦夷同士でも戦っていて、時には「征夷」の軍にも蝦夷が加わっていたこともある。本書はこのような複雑な古代蝦夷の実態を、考古学と文献学の知見を活かして簡潔にまとめた一冊だ。

 

著者の工藤雅樹氏は、第一章「古代蝦夷の諸段階」において、蝦夷の歴史を五段階に分類している。それぞれの段階の内容は以下のとおり。

 

第一段階……「エミシ」が東国人をひろく意味した時代

第二段階……朝廷の直接支配の外の人たちが「エミシ」と呼ばれた時代

第三段階……大化の改新から平安初期まで

第四段階……平安初期から平泉藤原氏の時代まで

第五段階……鎌倉時代以後

 

日本と蝦夷とのかかわりが本格化するのは大化の改新以降なので、本書では第三段階・第四段階にもっとも多くのページが割かれている。特に重要と感じたのは第三段階における桃生城や雄勝城などの造営で、このことは本書の四章でくわしく書かれている。桃生城と雄勝城の造営は藤原朝獦(藤原仲麻呂の四男)が推進したもので、彼の積極的な蝦夷政策のひとつだった。桃生城は蝦夷の領域に踏み込んでつくられた城だったため、政府側と蝦夷との緊張関係は急速に高まった。朝獦は「賊の肝胆を奪った」と桃生城の完成を誇っているが、桃生城や雄勝城、伊治城の建設は蝦夷の間に大きな動揺をまきおこした。これらの城柵の建設後、政府と蝦夷の戦いは宮城県北部から岩手県盛岡市付近にまでひろがり、さらに秋田方面の蝦夷まで巻き込みそうな状況になっていた。

 

伊治城が完成したのは767年のことだが、史上有名な伊治砦麻呂の乱が起きるのがこの13年後のことになる。伊治の蝦夷のリーダーだった砦麻呂は、かつては政府側に協力していたものの、やがて反乱を起こし、多賀城を焼きつくしてしまう。砦麻呂が反乱を起こした理由は、日ごろ彼を卑しい夷俘と侮っていた道嶋大盾を恨んだせいとも言われるが、藤原朝獦の対蝦夷積極策の反動が砦麻呂の反乱という形であらわれたと見ることもできる。砦麻呂の乱の衝撃は大きく、光仁天皇桓武天皇に譲位したこともこの乱がきっかけだったと著者は指摘する。その桓武がのちに坂上田村麻呂征夷大将軍とし、 阿弖流為と戦わせたことはよく知られている。

 

砦麻呂や 阿弖流為の戦いぶりは史上有名だが、この本を読むと、これらの蝦夷が急に反乱に立ち上がったのではなく、その前段階として政府側の強硬な蝦夷政策が蝦夷に大きなプレッシャーをかけていたことがよくわかる。このため、著者は藤原朝獦蝦夷政策を、蝦夷史上のひとつの画期としている。

 

このように見てくると、 朝獦大野東人の時代に積み残してあったことがらを、積極的な態度でクリアーしていったということができるであろう。ここで積極的な態度といったのは、蝦夷に対して軍事的にもより強い圧力をかけるという方向に動き出したということでもある。大野東人がやむをえずではあったものの、雄勝地方に城柵を置くことを断念したことを想起していただきたい。これに対して朝獦は大量の移民や兵士を動員して雄勝城と桃生城を造営している。

朝獦の時代以降、坂上田村麻呂が登場して胆沢城・志波城を造営し、鎮守府を胆沢城に移すまでの期間は、大化の改新から平安時代初期までを大きく一つの段階として把握する本書の立場からいっても、明らかに大野東人の期間とは異なる時期と見ることができるであろう。この期間に政府は、はじめて本格的に仙台平野・大崎平野以南の、弥生時代以降水田稲作が定着・普及し、前方後円墳などの古墳が恒常的に作られていた地域とは異なる文化伝統を有する地域を直轄支配地に組み入れるための行動を展開させたのである。朝獦以後を古代蝦夷の第三段階のなかの後半の小段階ととらえるゆえんである。 

 

ただし、蝦夷律令国家との関係は、たんなる対立関係としてはとらえることはできない。本書によれば、砦麻呂や 阿弖流為のような強力な族長が誕生した背景には、政府側が蝦夷に権威を与え、物品を供給したことがあげられるという。

 

政府側は蝦夷の地域に勢力をひろげるために蝦夷の族長層に位を授与し、また地域の指導者層であることを承認する称号を与えた。先に述べた阿倍比羅夫の遠征時の行動、また伊治砦麻呂、阿弖流為などが蝦夷の有位者であることや位(公)のカバネを有していたことを想起していただきたい。終末期古墳から出土する帯金具は、位を有する者が正式の場に出るときに着用する衣服の帯を飾るものであった。

政府側はその影響下に入った蝦夷の集団に対しては、農具や武器などの鉄製品、蝦夷社会では入手が困難であった繊維製品、米や酒などを供給したのである。そして族長層もまた、政府側からこれらの品物を入手して、それを住民に提供することが彼らの地位の安定・強化につながり、また他の集団に対しても優位に立つことになったから、政府側との接触はむしろ歓迎すべきことであったのである。

 

砦麻呂や 阿弖流為のような族長は、ある意味律令国家が育てた存在ともいえる。日本も蝦夷も互いを必要としていた。それだけに、両者が戦わずにすむ道はなかったかと考えたくなる。藤原朝獦がもう少し穏健な人物であったなら、砦麻呂や阿弖流為が戦争指導者として名を残すこともなかっただろうか。歴史にイフはないが、これらのリーダーが平穏に一生を終えた世界を見てみたくもある。

【書評】蝦夷が武士の成立に与えた影響とは?桃崎有一朗『武士の起源を解きあかす』

 

 

 この本の著者、桃崎有一朗氏によれば、武士がどこからどう生まれたのか、という問いに日本の歴史学界は答えられていないのだという。そこで、中世史を専門とする著者がみずから古代史の領域に分け入り、調べてみることになった。本書『武士の起源を解きあかす』の内容は多岐にわたっているのですべては紹介できないが、ここでは著者が提唱する「有閑弓騎」という概念に着目したい。鎌倉武士がそうであるように、初期の武士は弓騎兵だった。日本独自の弓騎兵の姿を、著者は「有閑弓騎」と呼んでいるのだが、これが武士の誕生に大きくかかわっている。

 

なぜわざわざ「有閑」と名づけているかというと、弓術の習得には時間がかかるからだ。著者は弓道の部活動の経験から、日本で騎射術を最初に身につけたのは「食いつなぐための生産活動以外に割ける時間的余裕を持つ富裕層」だったと説く。ここでいう富裕層とは、富豪の百姓かその上の領主階級、つまり廷臣やそれを輩出する層のことである。

 

なぜ、騎射術が必要とされたのか。ひとつには、東北地方の蝦夷と戦う必要性からだ。まず蝦夷が弓騎兵であり、歩兵でこれと戦うのは困難であるため、律令国家も弓騎兵を必要としていた。このため、聖武天皇の時代に富豪百姓を弓騎兵に登用する政策がはじまった。これらの「有閑弓騎」が最初に日本史にあらわれるのが文武天皇二年、山背の賀茂祭における「騎射」だという。この当時、賀茂祭は日ごろ修練した弓馬術を披露する場でもあったらしい。

 

また著者によれば、弓馬術自体が蝦夷からもたらされた可能性もあるという。俘囚(蝦夷)へ対応する「夷俘専当」に任じられていた藤原藤成は、俘囚と交流するうち、蝦夷の騎射術を身につけたかもしれないと著者は考える。

 

俘囚と国衙の接点となる彼の仕事は、俘囚との特別に濃密な交流をもたらしたに違いない。そして蝦夷(俘囚)がこの機会に、藤成の一家に戦術を伝えた可能性が指摘されている。その説では、それは疾駆する馬上から太刀で斬る剣術だといい、その伝来を”戦術革命”と高く評価しているが、論証が不十分でり、残念だが本書では採れない。むしろ、蝦夷は「生来騎射に長じる」と定評があり、後に弓馬術が武士の代名詞となり、藤成の子孫の秀郷が伝説的な弓馬術の達人と評されたのなら、違う答えが導かれるはずだろう。藤成一家に戦術が伝えられ、それが武士の成立に影響を与えたとしたら、それは騎射術と考えるのが自然だろう。その異民族由来の特別な騎射術があってこそ、藤成の曾孫に秀郷という弓馬の達者が排出された、という筋書きは、十分にありそうだ。(p105)

 

蝦夷ははたして「異民族」なのか、という疑問はあるものの、蝦夷が騎射術を藤原秀郷の祖先に伝えたという指摘は、非常に興味深いものがある。武士という日本固有の軍事力の誕生に、東北地方が大きくかかわっていたと考えるなら、蝦夷はもっと注目されていい存在かもしれない。

 

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続日本後紀』には「弓馬の戦闘は、夷獠の生習にして、平民の十、その一に敵する能わず」と書かれている。蝦夷の戦闘能力は、普段の狩猟生活で弓術を身につけていることに由来している。蝦夷は馬飼も生業としていたため、弓術と馬術の両方を身につけられる状況にあった。「有閑弓騎」とは違い、生業そのものが戦い方に結びついている、という点では、蝦夷の在り方は遊牧騎馬民族にも通じるものがある。

 

この本の最終章で、著者は「武士とは統合する権力」だと説明する。武士とは古代から存在していたさまざまなパーツを組み合わせることでできた、複合的存在だ。武士の成立に欠かせないパーツのひとつとして、蝦夷という存在がある。既存の要素がいくつか結合し、どの要素にもなかった新しい性質が生まれることを「創発」と呼ぶが、著者にいわせれば、武士とは「古代の要素から創発された中世」ということになる。このように見るなら、古代蝦夷にも新たな角度から光を当てることができるのではないだろうか。

ソクラテスの妻クサンティッペの「悪妻伝説」はどのように生まれたか

 

ソクラテス (岩波新書)

ソクラテス (岩波新書)

 

 

ソクラテスの妻クサンティッペは「悪妻」だったといわれる。彼女はときにソクラテスに水を浴びせかけたり、上着をはぎ取ったりしたという。そんな扱いを受けてもソクラテスは平然としていたというが、本当だろうか。田中美知太郎は『ソクラテス』において、このようなクサンティッペ像に疑問を投げかけている。

 

しかしこれらの小話めいたもののうちに、どれだけの本当があるのか、ほとんど誰も疑わしく思うであろう。これらは後の時代の創作にすぎないとも考えられる。もしクサンチッペが、その時代において、悪妻として名の高い者であったなら、同時代の喜劇作家が、これを見逃すはずはなかったであろう。しかし一種のソクラテス劇である『雲』においても、アリストパネスは、クサンチッペについては、一言も触れていないのである。(p30)

 

当代一の喜劇作家アリストファネスに取り上げられていない以上、「悪妻」クサンティッペの姿は虚像かもしれない、というわけである。では、クサンティッペの実像はどんなものだろうか。田中はプラトンの著書『パイドン』におけるソクラテス最後の日の様子を引用している。

 

なかに入ると、今しがた縛をとかれたばかりのソクラテスと、クサンチッペ──無論、あなたは知っているでしょう──が、子供さんを抱いて、かたわらに座っているのが、目にとまった。わたしたちを見るなり、クサンチッペは、悲しみの声をあげて、こういう場合、女の人がよく言うようなことを言うのだった。ソクラテス、あなたが仲よしのみなさんと、こうしてお話しできるのも、もうこれが最後なのね。

 

ここには「悪妻」としてのクサンティッペの姿は見当たらない。これから死刑に臨む夫を前にすれば、誰でも言いそうなことを言う妻の姿があるだけだ。クサンティッペはごく平凡な女性でしかなく、「悪妻」だなどというのは根も葉もない作り話にすぎないのだろうか。じつはそうとも言えない。田中はソクラテスの弟子クセノポンの著書『饗宴』の次のような一節も紹介している。

 

 「それならば、どうしてソクラテス、あなたは、それだけの理屈がわかっていて、それで自分でも、クサンチッペの教育をしてみないのですか。あなたの妻にしているのは、およそ女のうちでも、過去現在未来にわたって、最も難物の女なのに、それをそのままにしているというのは、どうしてなのですか」と。

 

これは犬儒派の開祖もとも言われるアンチステネスの台詞だ。かれはソクラテスの「妻をもらったらなんでも心得させておきたいものを仕込んだらいい」という議論に対し、こう言っている。田中はこの話が創作である可能性も指摘しつつ、ソクラテスと同時代の人クセノポンの著書に出てくる話だから、「クサンチッペ悪妻説なるものを全く無根であるということはできない」と書いている。クセノポンの『饗宴』にはこんな話も出てくる。

 

「馬を上手に扱おうとする者は、おとなしい馬よりも、むしろ悍馬を取って、自家用にする。それは悍馬を御することができれば、ほかの馬を御することは、易々たるものであると信ずるからである。わたしも上手に人間とつき合い、交わりたいと思うので、この女を妻にしたわけだ。この女を耐え忍ぶなら、ほかのどんな人間とも、やすやすとつき合っていけるだろうと確信したからである」

 

この話についても、田中は「ソクラテスがこんな理由でクサンチッペと結婚したかはすこぶる疑問」と書いている。いずれにせよ、これらの『饗宴』に書かれたエピソードがクサンティッペ悪妻説の起源のようだ。とはいうものの、この時点ではクサンティッペは「難物」とは書かれていても、具体的に何をしたのかまではわからない。

 

これらの小話をもとにして、クサンティッペにどれだけ手ひどく扱われても泰然としている、世俗を超越したソクラテス像ができてくる。田中美知太郎はプルタルコス『怒らないこと』のこんなエピソードを紹介している。

 

ソクラテスが相撲場から、エウチュデモスをつれて帰ったところが、クサンチッペの機嫌がたいへん悪くて、いろいろ小言を言ったあげく、食卓をひっくりかえしてしまった。そこでエウチュデモスも、面白くなかったので、立ち上がって出て行こうとしたら、ソクラテスがこれを引きとめて、「君のところでも昨日、鳥が飛び込んできて、これと同じようなことをしたが、 ぼくらは別に腹も立てなかったのにねえ」と言ったというのである。(p34)

 

現代人の知る「悪妻」クサンティッペの姿はおおむねこのようなものだ。ヒステリックにソクラテスを罵倒し、暴力も振るいかねないクサンティッペの姿はひどく戯画的だ。対してソクラテスは野獣のような妻の暴言を平然と受け流し、いかにも哲人といった雰囲気がある。そう、こうしたクサンティッペ像はまさにソクラテスを非凡の人とするためにつくりあげられたものだ、と田中は指摘する。ソクラテスに動物並みに扱われても仕方のない、無智と狂暴の女クサンティッペは、ソクラテスの影として描きだされた。

 

なぜ妻を思い通り教育しないのか、とソクラテスに問うたアンチステネスは犬儒派の祖と言われる。貧困や悪名などの苦難が人間を磨く、という考えが犬儒派にはあるが、その立場からすれば、悪妻もまた人生修行に役立つものだったかもしれない、と田中は言う。

 

犬儒派の理想的人物であるソクラテスは、徳のほかに何ものをも求めず、一切の悪条件の下に、平然としてこれに堪え、死の恐怖も快楽の誘惑も、かれの心を動かすことはできなかったのである。悪妻というようなものは、寒暑や困苦欠乏と同じように、易々としてこれに堪えなければならぬ、悪条件の一つにすぎなかったのだろう。寒中も素足で平気であったソクラテスと同じように、クサンチッペに罵られ、水をあびせかけられても、なお平然としているソクラテスが、かれらの英雄だったのである。かくて、かの悪妻伝説なるものは、恐らくこのようなソクラテス観からクサンチッペの気性を一面的に誇張し、拡大してつくり上げられたものだったものだったのではないだろうか。

 

このような犬儒派の考えに加え、パンドラ伝説のような女人を災厄のかたまりとするギリシャの価値観も「悪妻伝説」の形成にかかわっているかもしれない、と田中は書いている。クサンティッペの人物像は後世の多くの人間の願望や偏見がつくりあげたもので、その実像に迫るのはむずかしいようだ。

【感想】古市憲寿『絶対に挫折しない日本史』

 

絶対に挫折しない日本史(新潮新書)

絶対に挫折しない日本史(新潮新書)

 

 

好き嫌いの分かれそうな本だ。この手の概説書はなるべく著者の色を消して通説とされているものを淡々と記述していくものと、著者の個性を前面に押し出すものとがあるが、これは後者だ。この本では社会学者の著者らしく、日本の未来予測をしている箇所もある。章立てもオーソドックスな通史とは異なり、第二部では「コメと農耕の日本史」「家族と男女の日本史」など、テーマ別に日本史を眺めている。

 

第一部は通史だが、ここを読んでいくと、具体的な人名がほとんど出てこないことがわかる。英雄史観への反発なのか、社会のありようについてはそれぞれの時代ごとに書いているものの、歴史上の人物の事績がほぼ何も語られない。小久保利通も木戸孝允も出さずに明治維新を語る本は初めて読んだ。このあたりも好き嫌いの分かれそうな点だが、随所に社会学者らしい視点が見られるのはいい。たとえば著者は江戸時代の社会を語るとき、人口学者の鬼頭宏の説を引きつつ、農村で増えすぎた人口が都市という「蟻地獄」に吸収され、病気や過酷な労働で減ることで均衡を保っていたと書く。低成長の続いた江戸時代は、このようなサイクルでどうにか安定を保っていた。

 

第二部はさらに古市氏の個性が強く出ていると感じる。たとえば「家族と男女の日本史」の章は、全体として一部保守派の考える「伝統的家族像」への批判という色彩が濃い。古墳には夫婦が葬られたものはほとんど存在しないこと、第一次大戦後にようやく「専業主婦」という言葉が登場したことなどをあげつつ、「男が働き女が家を守る」という家族像が伝統に根ざしていないと主張しているのだが、これはLGBTの生産性の議論で物議をかもした議員の「昔の日本はは夫が外で働き、お金を稼いで妻に渡していた」発言の批判だ。どのあたりを「昔」と考えるかは人それぞれだが、古市氏によればこのような夫婦が一般化したのは1970年代だ。この役割分担が崩れると日本が崩壊すると件の議員は主張しているのだが、では1970年代以前の日本はずっと崩壊していたのですか、というわけである。こうした著者の皮肉を楽しめる読者にはいい本なのだと思う。

 

帯に『日本版サピエンス全史』と書いてあるだけに、農業革命についての記述もある。「コメと農耕の日本史」の章では、定住農耕生活に入ったことで人類はかえって不幸になったという『サピエンス全史』の読者にとってはおなじみの話も展開される。飢餓に苦しむ定住コミュニティは他のコミュニティから作物や家畜を奪うため、戦争が増える。椎間板ヘルニアや関節症、そして伝染病も蔓延する。日本人もまた、こうした定住農耕生活に伴うリスクを社会に抱え込むことになる。

そして、日本人にとって必ずしも農耕=稲作ではない。この本に書かれているとおり、「見渡すかぎりの水田」が珍しくなくなったのは、新田開発が盛んになった17世紀のことだ。さらにコメが日本人の主食になったのがようやく100年ほど前のことであり、それまでは麦や雑穀、イモや大根を主食にするのが当たり前だった。現代まで進むと著者は糖質制限ダイエットに触れつつ、いずれコメが主食の座を奪われる日が来るかもしれない、という可能性も示してみせる。コメ以外に様々な食品を食べるのは縄文時代の狩猟生活のアップデート番だと著者は言うのだが、実際どうだろうか。

 

この本のあとがきで、古市氏は展望台から見下ろした日本そのものを描きたかった、と書いている。俯瞰視点での日本史というわけである。確かにこの本では時代ごとの日本社会の姿をそれなりに描いているものの、ところどころで古市氏自身が顔を出し、現代日本の政治家を批判したりするため、必ずしも日本史を遠景としてじっくり味わえるわけではない。若い読者を意識したせいか、文体が妙に軽いところもあるので、学問としての歴史書を求める人には合わないかもしれない。基本、古市氏のファン向けの内容ということだろうか。

 

オーソドックスな日本通史としては中公文庫『日本の歴史』や岩波新書から出ている時代ごとのシリーズをおすすめしたい。

 

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【感想】冒険も結婚も「中動態」でしか記述できない?角幡唯介『そこにある山 結婚と冒険について』

 

そこにある山 結婚と冒険について

そこにある山 結婚と冒険について

 

 

冒険と結婚を哲学する、といった趣の本だった。著者のことをよく知らないで読んだのだが、この本は冒険そのものを求めて読むと当てが外れるかもしれない。一方で、角幡唯介が冒険と結婚という、相反するようにも思える行為についてどう思索をめぐらせてきたのか、を知りたい読者にとっては、これは必読書になるだろう。

 

まず序章がおもしろい。著者がさんざん訊かれてきた「なぜ冒険するのですか?」という問いに対する、角幡唯介なりの答えがここにある。本書の序章「結婚の理由を問うのはなぜ愚問なのか」において、著者は冒険こそが男にとっては自分の身体ひとつで死を身近に感じ、生の実感を得られる行為なのだと述べている。妊娠・出産を経て自分の身体で命そのものを感じられる女とは違い、男は外の世界に実存の根拠を求めなくてはならないのだと。

 

この章において、著者はポール・ツヴァイクのこんな言葉を引用している。

 

冒険者の才能は、拘束者を拘束すること、女性の謎めかしいアイデンティティーの裏をかいてそれを打ち負かすことにある。冒険者が打ち負かす相手の女性は、家というものの魅惑的な”家庭性”──馴致性──と共同体の空間を表現しているのであり、家と共同体は不動で、将来の予測がつくものであり、人間外の世界の没道徳的な霊力から防護されている。女性は、人間的な──と言うのはつまり社会的な──必要という安全な休息所──息をつく空間──を司っているのだ。〉

 

ツヴァイクは冒険を求める男性原理を、女性からの逃走なのだといっている。著者はこの見解に同意しつつ、冒険を社会や時代のシステムの外側に飛び出そうという行為だと位置づけている。そのような逸脱を許さず、男を家というシステムにつなぎとめておこうとするのが女という存在だというのだが、実際どうなのだろうか。ざっくり男女で分けすぎな感じはあるものの、大まかに言えば男女でそれぞれこのような傾向はあるかもしれない。男女というよりは、男性性と女性性の特徴といえばいいだろうか。

 

であれば、結婚は冒険とは相反する行為であり、冒険家として生きるなら結婚などしないほうがいいことになる。ところが角幡唯介は結婚した。そのせいか、いつからか「なぜ冒険をするんですか」ではなく「なぜ結婚したんですか」と質問されるようになったという。ふつうの職業の人ならこんな質問は受けないだろうが、やはり冒険家と結婚はどこかなじまないイメージがあるのだろう。

 

では、「なぜ結婚したんですか」という問いに角幡唯介はどう答えるか。彼にとって結婚とは「選択ではなく事態」だという。結婚はみずから選び取ったものではなく、さまざまな事象が複雑に絡みあい、推移した結果だというのだ。それ、要は「なりゆき」ってことでしょう?と言ってしまうと身も蓋もなさすぎる。このような状況をさすのにもっとふさわしい言葉がある。スピノザ哲学者・國分巧一朗が光を当てた「中動態」だ。

 

 

角幡唯介はこの本の3章「漂白という〈思いつき〉」において、『中動態の世界』を紹介している。かつて古代世界に存在していたこの文法は、能動態・受動態に還元されない人間のふるまいを記述するためのものだった。角幡唯介は問いかける。人が行為をするとき、本当に意思にもとづいているのかと。角幡唯介は今の妻と交際中、はじめは結婚する気はなかったそうだ。だがいつのまにか、事態は結婚する方向へと動いた。明確に結婚を意図したわけではなく、かといって結婚を強要されたわけでもないのなら、この状況は「中動態」的だというしかない。

 

とはいえ、「なんかそういう流れになったから結婚したのです」では多くの人は納得してくれない。少なくとも配偶者はそうだろう。角幡唯介がこの章で書いているとおり、彼の妻は「何が中動態よ。何が事態よ。あなたが結婚したかったから結婚したんでしょ」と反発している。中動態がどうとか言われても、なんだか無責任な感じがしてしまうのだ。そう、まさに行為に責任をとらなくてはいけないからこそ、中動態より能動態が求められるようになっていったらしい。明確な意思をもってそれを行った、ということにしなければ、行為に責任をとらせることができないからだ。

 

結婚がそうであるように、冒険もまた中動態的なものだと角幡唯介はいう。たとえば彼が北極への滞在を続けるうち土地との関係が深まり、思考が変化し、いつのまにか長期狩猟漂白を試みるようになる。事態はしばしばこざかしい人間の意図を超え、予想もつかないほうに転がっていくものなのだ。思えば人生における行為など、大部分はそんなものかもしれない。この『そこにある山 結婚と冒険について』にせよ、書店に入った時点では買うことすら考えていなかった。だが気がつけば手にとっていた。では、今しているこの行為は中動態的読書とでもいうべきものだろうか。それははっきりとはわからない。確かなことは角幡唯介という人が興味深い人物であるということと、この本がとても面白い、ということだけである。

岩波新書『シリーズアメリカ合衆国氏』『シリーズ中国の歴史』が電子書籍化

 

 

岩波新書の『シリーズ合衆国史』と『シリーズ中国の歴史』が電子書籍化されます。合衆国史と中国の歴史の1、2巻がそれぞれ12月24日から配信開始です。アメリカ史はオーソドックスな通史ですが、シリーズ中国の歴史は王朝ごとに分けるのではなく、江南や草原など地域にも着目して長いスパンで中国史を見ていくことで、新視点からの中国史概説書をめざしています。このシリーズはどの巻も読みごたえがある内容です。

 

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『植民地から建国へ』はアメリカ独立以前の記述も比較的多く、先住民族の生活については数万人を擁する大規模な都市が存在したなど、あまり知られていない史実の記述もあります。13植民地のタバコの国際競争力の強さや、イギリスからの年季奉公人の流入など、植民地が発展していった経済的・社会的理由もよくわかります。

 

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『中華の成立 唐代まで』は制度史についての記述が多く、かなり硬い内容にはなりますが、貢献制・封建制・郡県制という中国王朝の骨格をなす部分の解説がくわしいので、中国王朝の「しくみ」について知りたい方にはおすすめの内容です。春秋時代の人骨のDNA解析から孔子の目が青かった可能性もあるなど、興味深い内容も含んでいます。

 

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国史シリーズ2巻の『江南の発展』は中国の「船の世界」を描く概説ですが、この巻では1巻とは違った意味で中国史の「しくみ」について知ることができます。具体的には官僚になれば政治力・経済力・文化力すべての社会的威信を総取りしているという点で、商人が一族から科挙官僚を生み出し国家機構に食い込む理由もこれです。政治は武士、経済は豪農・豪商、文化は公家・僧侶というふうに力が分散している日本社会と比較するのもおもしろいと思います。

 

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こちらで紹介した『性からよむ江戸時代』も24日から配信されますが、こちらは小林一茶の夜の生活を記録した文書から江戸時代の民衆の性のあり方を読みとくなど、興味深い内容になっています。江戸時代の農村の離婚訴訟や不義の子の扱いなど、庶民の生活について知りたい方には特におすすめです。

 

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シリーズ中国の歴史は3~5巻目もすべて良い内容だったので、早い時期の電子書籍化を期待しています。