明晰夢工房

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逃げ上手の若君1巻感想:新田義貞の影が薄い理由とは?

 

 

そつなくうまい漫画には感想が書きにくい。南北朝時代を舞台に少年漫画をやるのは難しそうだが、冒頭から鎌倉幕府が滅びるという逆境のなかで、三人の郎党と友情を育みつつ成長してゆく時行の姿はちゃんと少年漫画らしさを保っている。それでいてこれはしっかりとした歴史漫画でもある。五大院宗繁のクズっぷりや小笠原貞宗の弓スキルなど、史実を生かしつつ敵方のキャラを立たせる手腕は堅実で、なによりラスボス?になるはずの足利高氏の存在感が際立っている。この時代、流れをしっかり追おうとすると結構大変だが、時行の目的が高氏打倒に一本化されているので、時代背景をあまり知らない読者もわりとすんなり入っていけそうだ。

 

隙なく完成度の高い1巻だった、で終わってもいいのだが、ひとつ印象に残ったことがある。新田義貞の存在感が奇妙なまでに薄いことだ。確かに足利高氏は京都で鎌倉幕府から離反し、有力御家人に協力を求め、幕府が滅びるきっかけを作った。だが鎌倉に直接攻め込んだのは新田義貞である。だが『逃げ上手の若君』では1巻の時点で、新田義貞は名前しか出てこない。

 

北条時行の父・高時を自害に追い込んだのは新田義貞だが、時行の怒りは義貞にはまったく向かっていないようだ。それどころか義貞のことなど考えてもいないように見える。漫画のなかでは足利尊氏が義貞に鎌倉を攻めさせたことになっているから、あくまで時行の仇は高氏なのだろう。

 

実際に新田義貞が鎌倉を攻めた理由ははなんだろうか。『日本全史』ではこう書かれている。

 

 

義貞が新田荘の生品神社で討幕の旗をあげるにいたった要因についてはさまざまにとりざたされている。とりわけ戦費調達の名目で新田世良田の地に6万貫の公事銭を強制的にとりたてた幕府への反発が大きかったと思われ、親王の令旨は、義貞が反旗をひるがえすための大義名分にすぎなかったといわれる。(p295)

 

この通りだとすれば、義貞はあくまで自分の都合で鎌倉幕府に謀反したことになる。 だが義貞の鎌倉攻めについては別の見方も存在する。『南北朝武将列伝 南朝編』の時行の列伝にはこのような指摘がある。

 

 

近年では、義貞による鎌倉攻めは尊氏によって事前に計画されていたという指摘がある。こう考えるならば、六波羅攻めや鎌倉攻めを計画した主体は尊氏ということになり、実質的に幕府を滅亡させたのは尊氏ということになる。すると、時行の義貞に対する恨みはなく、尊氏のみに敵意をむけることにも納得できる。つまり、鎌倉幕府を倒すきっかけをつくったのは後醍醐であるが、実質的に幕府を滅ぼしたのは尊氏ということになるだろう。(P201)

 

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『逃げ上手の若君』で採用している高氏(尊氏)像はこちらだ。海千山千の公家をもたやすく虜にするこの魔性の笑顔で、義貞も味方に取りこんだのだろうか。義貞が高氏の手駒にすぎないなら、時行の怒りが義貞には向かわないのも理解できる。漫画的にも、義貞が高氏の計画通りに動いたことにしたほうが、高氏のカリスマ性が高まる。新田義貞がこの先どう描かれるかわからないが、高氏の方が圧倒的に格上という扱いになるだろうか。

 

ちなみに、この漫画は巻末の歴史解説もおもしろい。軍事では鎌倉幕府にかなわない朝廷は天皇が先頭に立って行政・司法能力を磨いたため、鎌倉時代後半の天皇には名君が多かったと書かれている。その流れで出てきたのが後醍醐天皇だが、鎌倉幕府は朝廷を覚醒させ、自らを打倒しうる帝王を生んでしまったことになる。

かつて日本人が「猫食い」をしていた時代があった──真辺将之『猫が歩いた近現代──化け猫が家族になるまで』

 

 

現代ほど猫が愛されている時代もない。テレビをつければ岩合光昭が野良猫にカメラを向ける姿が映り、ツイッターを開けば「我が家の黒い妖怪」といった一文とともに日夜猫画像が流れてくる。現代日本は慢性的な猫ブームの中にあり、猫は犬とともに家族の一員として確固たる地位を占めるようになっている。

 

ところが過去に目をむけると、日本人は現代ほどには猫をかわいがっていたわけではないことがわかる。その証拠のひとつとして、戦前には日本人が猫を食べていた記録が多数存在する。『猫が歩いた近現代──化け猫が家族になるまで』は、かつて日本に存在した「猫食い」を知るうえで貴重な一冊だ。

 

この本によれば、猫を食べる行為は江戸期から一部で行われていたという。江戸時代の書物には猫の薬としての効能が書かれているものがあるが、これは猫が持つとされていた魔力や霊性と結びつくものだ。明治時代に入り、「化け猫」のイメージが薄れるとともに薬物として猫を食べることはなくなるが、通常の食事としての猫食いは続いていた。「猫鍋」など猫を用いた郷土料理も存在していたし、昭和に入っても戦前は泥棒猫を捕まえ、食べるものもいた。

 

だが、猫食いは一部で行われていたものの、これが普通の食事だったわけではない。この本によれば、「それは一般家庭で日常的に行われていたものではなく、食べるものに困った人が食べるか、あるいは特定の地域の郷土料理または精力剤として食べられることがある、程度のもの」だった。戦前の猫は今ほど人気のあるペットではなかったが、それでも1935年には猫の専門誌『猫の研究』が刊行されるほどには、猫を好む日本人は存在していた。この雑誌には愛猫家として有名な藤田嗣治のエッセイも載っている。

 

猫が食べるものに困ったときに食べられる生き物だったからには、人々が食糧不足に陥れば猫が危機をむかえることになる。戦時中から戦後の食糧難の時期には、それまでより多くの人が猫を食べることになった。ただし多くの場合、それは秘密裏に行われた。猫や犬の肉をハムやソーセージに加工し、生肉を牛肉と偽って逮捕された業者がいたり、猫の肉を個人商店がひそかに用いる事例があったという。洋食屋の調理場のゴミ箱に、偶然にも猫の頭蓋骨らしきものを見てしまったという証言もある。戦後の闇市でも、犬や猫の肉を他の獣肉と偽って売ることが横行していた。

 

こうした猫食いの記憶が、のちに思いもかけない形で復活する。オイルショックの時期、ファストフード店ハンバーガーに猫の肉が入っているというデマが広がり、東京都衛生局に電話が殺到するという事態が起きたのだ。似たような噂は世界中に存在したが、多くの場合、ハンバーガーに混入したのはミミズの肉とされていた。猫の肉が混入したというのが日本のデマの特徴だが、著者はこのデマについて「人々の深層意識のなかに、戦後の混乱期に自分も猫の肉を食べたかもしれないという記憶が、リアリティをもって残っていたことがあったのではないか」と推測している。

 

猫が完全に家族の一員となった今では、猫を捕食対象とみる人はいない。猫と人間の関係性が今ほど良好な時代はないように思える。だが猫が家族になるとはどういうことか。著者は『見ず知らずの他人よりも自分の猫の方がかけがえのない存在に思えるという精神状況こそが、猫を「家族」の、そして「社会」の一員たらしめている』と見る。猫がかわいがられることの背景には、現代社会における人間関係の希薄化や、コミュニケーションの難しさがある。どの時代でも、猫の在りようは人間社会を映す鏡だ。猫の歴史を知ることは、人間そのものを知ることにもつながる。

 

【書評】総勢31人の武人の生涯から南北朝時代を俯瞰できる『南北朝武将列伝 南朝編』

 

 

楠木正成新田義貞北畠顕家など有名どころから、南部師行・諏訪直頼などちょっとマイナーな人物まで南朝を支えた人物を網羅した本。「武将列伝」なので後醍醐天皇後村上天皇の列伝はないが、執筆陣は全員が日本史の専門家なので安心して読める。北条時行の列伝もあるので『逃げ上手の若君』のネタバレをされたくない人はここだけ飛ばしたほうがいいかもしれない。

 

この本は東日本から順番に南朝の武将を取りあげているが、「東国武将編」を読むと東北地方が南朝にとって重要な拠点だったことがわかる。後醍醐は北畠顕家を奥州に下向させ、南部師行や南部政長がその統治を支えていたが、顕家はともかくこれら南部氏の活動をよく知らなかったので、かなり楽しめた。師行が拠点とした根城は有名だが、この名称の初出は1618年であり、当時は「八戸城」と呼ばれていたらしいこともこの本ではじめて知った。

 

楠木正成南朝の「忠臣」として知られるが、この本では正成は最晩年は建武政権下では孤立していて理解者がいなかったことが指摘されている。正成の子正行も(若くして戦死したため)「悲劇の武将」とされるが、短命に終わったためそのような評価になっているだけで、長命だったならどんな生き方を選んだかわからない、と冷静な評価が下される。正行の弟正儀は北朝に降参したこともあるが、正成や正行も彼のように長生きだったらどうなっていたかはわからない。早く歴史の表舞台から退場したため「忠臣」という評価で生涯を終えられたことは、幸いといえるのだろうか。

 

北畠顕家もそうだが、この時代は皇族や公家も武将になるのが特徴だ。これはなぜだろうか。北畠親房の列伝を読むと、後醍醐が「公武一統の世の中になったのだから、文と武の二つの道を区別すべきではない」といっていたことがわかる。これは「北畠家は和歌や漢詩で朝廷に仕えてきたため、武芸には疎い」と顕家の陸奥下向を渋る親房に対していったことだが、この台詞には親房の戸惑いが感じ取れる。慣れないことを強要されて戸惑っていた公家もこの時代には存在していたが、顕家に武将の才能があったことは幸いというべきだろうか。

北畠親房南朝の重鎮としてよく知られているが、楠氏との関連でこの列伝を読んでいくと、正儀の運命に彼が深くかかわっていることがわかる。親房は南朝の中でも強硬派だったため、正儀が担当していた北朝との和平交渉に反対し、彼に「幕府に降参し南朝を没落させる」との台詞を吐かしめている。怒りに駆られて言っただけなのかもしれないが、のちに正儀はこの言葉を本当に実行することになる。

 

漫画のネタバレを避けるため北条時行の生涯について具体的には書かないが、彼の列伝を読むと、このような生き方ができたのは南朝北朝が戦っていたからこそといえる。確かに「逃げ上手」といえるエピソードも載っていて、これが漫画でどう描かれるか楽しみにもなる。時行の行動は常にある一点をめざしていて、そこからぶれることがない。その最期は寂しさを感じさせるものではあるが、最後まで北条の貴公子として生き切ったとはいえる。

 

南北朝の争いは日本国内での争いだが、九州に目をむけると、明と通行していた勢力も存在している。明から「日本国王」と認識されていた懐良親王の列伝を読むと、彼が明と通行したのは貿易の利を通じて九州の諸勢力を味方につける意図があったためであることがわかる。九州南朝軍の中心だった菊池氏も港湾都市高瀬を支配していたため、交易への関心は高かった。この時代でもやはり九州は大陸へ開かれていたことがわかる。

 

以上、興味を引かれた人物について書いてきたが、どの人物の列伝も文章は読みやすく、とくに引っかかりを感じるところはない。気になる人物のところだけ読んでもいいが、あまり知らない人物の列伝を読むと意外な発見があったりするので、ひととおり全員に目を通したほうが面白いかもしれない。自分も新田義貞の息子たちが意外なほどの活躍を見せていることは、この本ではじめて知った。この「恐るべき子供たち」の生涯を書いた本はほかにあまりなさそうなので、その意味でも手にとってほしい一冊でもある。

【感想】道尾秀介『雷神』

 

雷神

雷神

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「ラスト1ページの衝撃」を売りにするミステリはけっこう見かけるが、この一文はこの作品にこそふさわしい。道尾秀介が「これから先、僕が書く作品たちにとって強大なライバルになりました」と自負する『雷神』は、ラスト一行で読者の心にそれこそ落雷のような強烈な一撃を見舞ってくれる。ヘビーなミステリが読みたい、重く深い余韻に浸りたい読者にとっては、これは間違いのない一冊だ。

 

『雷神』は冒頭から主人公が最愛の人を事故で失うショッキングな場面で幕を開ける。しばらく時が経ち、料理人として仕事に励みつつ平穏な日々を過ごす主人公のもとに、謎の人物から脅迫めいた電話がかかってくる。それは主人公が忘れたかった過去を知る人物からのものだった。加えて娘からは大学の期末写真を撮るため、主人公の生まれ故郷を訪れたいと持ちかけられる。平和な日常に亀裂が走り、忌まわしい記憶とともに捨ててきた故郷・新潟県羽田上村に、主人公は再び足をむけることになる。

 

羽田上村には「神鳴講」とよばれる祭りが存在する。羽田上村の特産品はキノコだが、雷が落ちた場所にはよくキノコが生えるため、この村では雷神を神社に祀り、祭りの日には村民が皆でキノコ汁を食べる風習がある。主人公が少年の日、このキノコ汁に何者かが毒を入れ、村の名士を殺害する事件が起きた。詳しいことは書かないが、主人公一家が村を離れるきっかけになったのがこの事件だ。三十年の時を経て、彼は再びこの過去と向き合うことになる。

 

だが、事件の全容を知るうえで妨げになるものがある。主人公の記憶だ。主人公は神鳴講の日、姉とともに雷に打たれているため、記憶の一部が欠如している。この欠如を埋めるため、村人から当時の話を集めるうち、見えてくる事件の姿はしだいに形を変えていく。神鳴講の当日何が起きていたのか、羽田上村を去る間際に父が村人に言った言葉の真意は何か、そしてキノコ汁に毒を盛ったのは何者か──集めた情報はある一点をさし示しているように思える。だがこの作品の仕掛けは精緻で、見事にミスリードされてしまう。やがて見えてくる事件の全貌に、読者は深く嘆息することだろう。

 

『雷神』は単にミステリとして読んでも楽しめるが、この作品は人物描写も秀逸だ。特に、いつも影となり日向となり主人公を守り続けた姉・亜沙実のキャラクターは、強く印象に残る。雷に打たれ、身体に醜い痣を刻まれながらも強く生きた亜沙実の支えがなければ、主人公は羽田上村での辛い日々を生きのびることはできなかっただろう。この強く優しい姉がどんな運命をたどるかもこの作品の読みどころのひとつだ。結末は言えないが、この姉の人生はしばらく忘れられそうにない。フィクションなのに、確かにこのような人物が存在していたかのように感じられるほどだった。

 

主人公を含め、藤原家の人物は皆人としてのやさしさ、善意を多く持ち合わせている。姉の亜沙実はもちろんのこと、娘の夕見も父親思いだし、父も母もそれぞれに愛情深い人物だった。それぞれが善意と優しさに基づいてふるまった結果がこの結末だと思うと、どうにもやりきれない思いが残る。なぜ世界はこうも理不尽で残酷なのか。結局、最後の一行で書かれていることが真実だからだろうか。それは誰にもわからない。確かなことは、そう思えても仕方のない状況、人生というものがあるということである。

末摘花はソグド人の血を引いていた?八條忠基『「勘違い」だらけの日本文化史』

 

 

源氏物語のヒロインのなかでも末摘花が不器量だったことはよく知られている。末摘花のモデルは醍醐天皇の四子・重明親王の子源邦正だと考えられているが、この人物の容姿は末摘花に酷似している。邦正は際立って背が高く、顔は青白く鼻は赤かったそうだが、『有職装束大全』の著者として知られる八條忠基先生は、この容貌はソグド系の血の影響かもしれないと指摘している。

 

中央アジアペルシャ系であるソグド人は、沿海州にあった渤海国に往来していました。その渤海国は日本と通行し、商人も来航しています。その一団の中にペルシャ系あるいはコーカソイド(白人)がいたとしても、決しておかしくはありません。渤海使との関連、そして容貌の特徴を考えれば、源邦正≒末摘花には大陸ソグド系の血が入っていたのかも。つまり末摘花はハーフ美人であった?!

(『「勘違い」だらけの日本文化史』p47)

 

源邦正の父・重明親王渤海使が都に来たとき、貂裘(クロテンの毛皮)を8枚も重ね着して見物したというエピソードがある。この時代、貂裘は東北地方から手に入れられたと考えられている。東北地方の人々は渤海と交易をしていて、そのルートで貂裘を入手していたようだ。重明親王が北方交易で貂裘を手に入れていたとすれば、東北を経由して渤海重明親王はつながっていることになる。これが源邦正がソグドの血を引いている証拠にはならないが、重明親王がなんらかの形で渤海のソグド人とかかわっていた可能性はある。

 

八條忠基先生は紫式部がソグド人を見た可能性があるとしている。式部の父・藤原為時は若狭の国に漂着した宋人の一行が越前に移送されたのに対応するため、娘を連れて越前守に赴任している。宋人の一行にソグド人が含まれていたなら、似たような風貌をもつ末摘花が源氏物語に登場しても不思議はないことになる。わざわざ小説に登場させるくらいだから、その風貌はよほど強く印象に残っていたはずだ。

【感想】修道女フィデルマシリーズ長編第一作『死をもちて赦されん』

 

 

若くて美貌、学識豊かで弁護士資格を持ち頭脳明晰……と超ハイスペックな修道女フィデルマが難事件を解決するフィデルマシリーズの第一作。本作『死をもちて赦されん』ではイングランドノーサンブリア王国のストロンシャル修道院を舞台として物語が展開する。

この物語の背景となるウィトビア教会会議は、ローマ派とアイオナ派の宗教論争だが、主人公のフィデルマはアイルランドカトリックであるアイオナ派に属する。この会議に先立ち、ストロンシャル修道院フィデルマの友人でもあったアイオナ派の修道院長・エイターンが何者かに殺害される。フィデルマは会議を主宰するノーサンブリア王オズウィーに捜査を命じられるが、公平を期するためローマ派の修道士エイダルフとコンビを組むことになる。エイダルフはフィデルマリーズではずっと相棒を務めているが、この巻では初顔合わせになる。

 

犯人を捜すため、フィデルマとエイダルフはエイターンの部屋に入ったものへの聞き込みをはじめることになるが、フィデルマは基本だれにも遠慮することがなく、ちょっと上から目線に感じることもある。これにはアイルランドの習慣も関係している。フィデルマの故郷では弁護士資格を持つフィデルマは王に対しても対等にものを言える存在で、プライドが高くなるのも自然なことだった。しかし事件の舞台はアイルランドではないので、エイダルフにここはノーサンブリアなのです、とたしなめられたりもする。それでも態度を改めることなく、何物にも媚びないフィデルマの堂々たる性格もこの作品の魅力のひとつだ。

 

調査を進めるうち、やがて第二第三の惨劇も起きてしまう。ここにはノーサンブリア王国の後継者争いも絡んでくる。オズウィーの長男アルフリスは野心家で、宗教会議のゆくえ次第では謀反も辞さない覚悟を持っている。王族にとってはローマ派とアイオナ派の対立は兵をあげる口実にすぎない。情勢が緊迫の度合いを増すなか、フィデルマは危機にも見舞われるが、薬草の知識を持つエイダルフに救われる一幕もある。エイダルフも鋭い頭脳を持っているが、どちらかというとフィデルマのサポート役になることが多いようだ。やがて二人がたどりついた真実はかなり意外なもので、作中のヒントだけではこの犯人にたどりつくのは難しいように思う。だがギリシャ文学についてほんの少しの知識があれば、かなり納得のいく結末でもある。真実を明かされた後では、犯人は生まれる時代を間違えてしまったか、と深い虚脱感にとらわれる。

 

本作『死をもちて赦されん』の魅力はフィデルマの鋭い洞察力を用いた謎解きだけではない。この作品は7世紀のアイルランドイングランド修道院の雰囲気を存分に味わえる「歴史小説」でもある。この時代、アイルランド修道院では男女が共同で暮らしていて、なんと結婚も認められていた。意外と開放的な一面を持つアイルランドの修道制だが、これが禁欲を掲げるローマ派との争いの種にもなっている。そして、このアイルランドの風習がミステリ部分に絡む仕掛けにもなっているので、本作は歴史とミステリが絶妙に融合した作品になっている。カドフェルシリーズや『修道士ファルコ』など、中世ヨーロッパの修道院を舞台にした作品はそれなりにあるが、7世紀のアイルランドイングランドを扱った作品はめずらしい。その意味でも、『死をもちて赦されん』は価値の高い一冊といえる。

 

物語の背景となるウィトビア教会会議の経緯はこちらに簡潔に記されている。イングランドキリスト教の方向性を決める重要な会議だったようだが、この史実を知らなくても本作を楽しむうえではなんら支障はない。作中ではローマ派とアイオナ派が論争をするシーンが何度かあり、あまり興味の持てない細かい教義の話もあったが、ストーリーに深く絡んでいるわけではないので斜め読みしても特に問題なく読みすすめられる。

 

戦国日本における「水軍」と「海賊」はどう違うのか?小川雄『水軍と海賊の戦国史』

 

水軍と海賊の戦国史 (中世から近世へ)

水軍と海賊の戦国史 (中世から近世へ)

  • 作者:雄, 小川
  • 発売日: 2020/04/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

戦国時代の「海賊」としては瀬戸内海の来島村上氏能島村上氏がよく知られている。ところで「海賊」とはなんだろうか。本書『水軍と海賊の戦国史』では海賊を海上活動を存立の主要基盤とする軍事勢力」と定義している。来島村上氏能島村上氏は海路の支配や廻船の運用・漁業経営や海上の軍役など、多様な活動をおこなっているが、海上交通への関与は暴力を伴うことがある。このため、これら村上氏のような海上勢力は古来より「海賊」とよばれていた。

 

一方で、これらの村上氏は「村上水軍」とよばれることもある。これは来島村上氏能島村上氏が上位権力と結びつき、「水軍」を構成することもあるからだ。この本では水軍は「軍事運用を目的として編成された船団」と定義される。毛利氏が村上諸氏を水軍に参加させているように、海賊は水軍の構成要素として重要な存在だ。だが、水軍が必ず海賊を必要としていたわけではない。この本で紹介している玉縄北条氏や伊勢の田丸氏のように、地元の海民を水軍として編成した例もある。

 

たとえば、玉縄北条氏の場合、戦国大名北条氏の一門として、相模国東部の支配を委任され、房総里見氏の海上攻勢を防ぎつつ、房総半島に渡海するうえで、独自に水軍を編成しており、当主座乗の大船まで所有していた。玉縄北条氏の所領は、三浦半島から神奈川湊周辺にも展開しており、この地域の海民や造船技術などによって、水軍を編成したのである。また、伊勢国衆の田丸氏(伊勢北畠氏庶流)も、南伊勢の沿岸地域に領域を展開し、志摩海賊の九鬼氏と同様に、織田氏羽柴氏から水軍としての軍役を求められた。このように、海賊でなかったとしても、所領に海浜・港湾などを有して、船舶や海民を軍事的に動員・組織する要件を満たしていれば、水軍の編成は十分に可能であった。(p13)

 

九鬼氏は織田氏と結びついた海賊で、織田水軍の一部を構成したが、上記の記述によれば織田水軍のすべてが海賊だったわけではないことになる。海賊は海上の戦闘に長けているため水軍として活動することも多く、水軍と海賊は近い存在だが、両者がイコールだったわけではない。

 

 

戦国時代の「海賊」としてはやはり来島村上氏能島村上氏の存在感が抜きんでているが、これは両者の自立性の高さによるものだろう。これらの村上氏は『全国国衆ガイド』では国衆と位置付けられており、単体で小規模な「国家」を形成していた。いっぽう、北条氏や武田氏も伊勢や紀伊方面の海賊を招いているが、こちらはあまり有名ではない。これら関東や東海に渡った海賊は村上諸氏とは異なり、海上権力としての自立性を持たず、主家から与えられた権限の範囲内で活動していたのだが、こうした在りようが海賊の「自由」なイメージにふさわしくないからだろうか。もっとも村上氏も江戸時代には自立性を失い、来島村上氏豊後森藩主に、能島村上氏は萩毛利藩の船奉行となっている。海賊として名をはせた村上氏の一部は、毛利氏の水軍として江戸時代を生きた。