明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

【感想】自己皇帝感あふれるビザンツ皇女アンナ・コムネナが主人公のフルカラー4コマ『アンナ・コムネナ』

 

 

開幕一秒で弟に「お前を消せばいいわけね」と言い放つヒロインもめずらしい。本作の主人公アンナ・コムネナは父アレクシオスが皇帝なので、自分もビザンツ皇帝をめざしていたが、弟ヨハネスが生まれた時点で彼が皇帝になることが決まってしまった。ヨハネスが傲慢で仲が悪いせいもあり、皇帝になるならお前を消せばいいんだ、なんて言ってしまうのである。どうしても帝位をあきらめきれないアンナは、皇帝になる方法を書物の中に探し求め、本の虫になる。のちに歴史家となるアンナ・コムネナの教養の基礎がここでできあがる。

 

このアンナの最大の理解者が夫のニケフォロスだ。この少年はまだ16歳なのにずいぶん人間ができていて、アンナの文学趣味にも理解を示し、その才能を伸ばすべく協力したりもする。ビザンツの貴族に「我が強い皇女様の手綱をしっかり握らないと」と言われたら「アンナは馬でも獣でもありません」と言い返す一幕もあり、気骨のある一面をみせたりもする。ニケフォロスはふだんは物静かなので、気が強く決して自分を曲げないアンナとは好対照をなしている。史上最高の文人皇帝になる!と意気ごむ自己肯定感、いや自己皇帝感のかたまりのアンナと、彼女を支え続けるニケフォロスの夫婦ラブコメが『アンナ・コムネナ』のベースになっている。

 

(オーラがモザイクになってるのがビザンツ風)

 

アンナ夫婦のやり取りはほほえましいものだが、物語の舞台は陰謀渦巻くビザンツ宮廷だから、ただのほのぼのラブコメで終わるはずもない。この漫画にはビザンツ帝国の政治闘争もしっかり描き込まれている。たとえばニケフォロスの祖父・老ブリュエンニオスはかつて帝位を狙って失敗したため、ビザンツ名物・目潰しの刑で視力を失っていたことにもふれられている。目をつぶすのは五体満足な者しかローマ皇帝になれないからという解説もあり、時代背景も自然と頭に入ってくる。

 

アンナが本格的に宮廷政治の厳しさを知るのは、13歳のときである。かつて国政を切りまわしていた義母のアンナ・ダラセナ引退の真相をさぐるため、修道院におもむいて義母から事の真相を聞くうちに、アンナはこの国で女として生きることの厳しさを思い知らされる。アンナ・ダラセナは言う。アンナの父アレクシオスのように、勇猛な軍人なら敵を許すことは寛大さと讃えられる。だが、女だと寛容さは弱さだとみなされる。政敵を残酷に処刑することが「女の戦い方」なのだ──と。

 

さらにもう一人、「女の戦い方」を教えてくれる人物がいる。元ビザンツ皇后・アラニアのマリアだ。マリアはかつてアンナの婚約者だったコンスタノティノスの母親で、輝くばかりの美貌をうたわれた人物だ。アンナには優しかったマリアにも、父アレクシオスの暗殺未遂事件の真相をさぐるうち、実はアンナの知らない一面があることが明らかになる。美しくとも一人の人間として扱われないのなら、美貌を武器に男たちを操り、権力闘争を勝ち抜くと決めたマリアの生き方は、アンナに衝撃を与える。

 

ところが、アンナはこの二人の「女の戦い方」をよしとしない。アンナには「アンナは女である前にアンナです」と言いきる強さがある。アンナは男のように戦場には立てないが、かといって残酷さや権謀術数を用いるやり方も受け入れられない。女らしい戦い方も男らしい戦い方もしない、私は私らしく平和に戦います──とアンナはマリアに言い放つ。マリアの芯の強さが輝くこのシーンは、本作のハイライトだ。この自己皇帝感の塊の少女が今後どう成長するのかが楽しみになる。

 

この漫画には、巻末に主要参考文献として井上浩一や根津由喜夫・和田廣などの名だたるビザンツ史家の著作がたくさん載せられているので、より深くビザンツ史を知りたい人にも便利。この作品をきっかけに、魅力あふれるビザンツ帝国史の世界に踏み出すのもいいかもしれない。考えてみたらこれらの歴史家も、歴史家アンナ・コムネナの恩恵を大いに受けているのである。本来皇帝になりたかったはずのアンナがどのようにして歴史家になっていくのか、ここを知るためにも『アンナ・コムネナ』は先が楽しみな作品といえる。

【書評】ブッダになれるのは一部の「能力者」だけか、それとも全員なのか?師茂樹『最澄と徳一 仏教史上最大の対決』

 

 

仏教というより高度な論理学の本を読んだような、不思議な読後感が得られる一冊だった。本書『最澄と徳一 仏教史上最大の対決』は、タイトル通り最澄と徳一の論争について解説してるが、ここでの争点は大ざっぱにいうと「人は誰でもブッダになれるのか」だ。最澄は一乗説(=衆生はいずれ皆ブッダになる)、徳一は三乗説(=ブッダをめざす道である菩薩乗と阿羅漢をめざす声聞乗・独覚乗が併存する)の立場である。大乗仏教の究極目的は「ブッダになること」なので、人がブッダになれるかどうかは一大問題だ。だからこの点について見解の相違があれば、大論争に発展する。

 

最澄と徳一の論争を理解するためには、最低限の仏教思想史をおさえておく必要がある。このため、本書の「はじめに」では最澄の時代にいたるまでの大乗仏教思想史が簡潔に説明されている。ここだけでもけっこう情報量が多く、仏教思想史にまったく興味がなければついていくのは大変かもしれない。一方、大乗仏教に興味があるならここを読めば、最澄と徳一の論争のバックボーンをよく理解できる。

徳一が三乗説に立っているのは、彼が学んだ法相宗玄奘の教えを受けついでいるからである。玄奘がインドで学んだ唯識派の文献には、すべての衆生ブッダになれるわけではない、と書かれていた。それまでの大乗仏教では「涅槃経」に書かれているように、「すべての衆生は仏性(=ブッダになる素質)をもつ」との考えがポピュラーなものだった。だが唯識派は修行者はそれぞれ素質がちがい、いずれブッダになる菩薩種姓、修行して阿羅漢になる声聞種姓、ブッダにも阿羅漢にもなれない無性などが存在すると考えた。著者の師茂樹氏はこの本の4章で、仏性の「性」は「アニメやマンガに出てくる~家の能力に近いかもしれない」と書いている。唯識派の考えでは、ブッダになれるのはそのような資質を持つ「能力者」だけなのである。

 

ブッダになれるのは一部の「能力者」だけなのか、そうでないのか。ここを議論するために、仏教では「因明」という独自の論理学を用いている。因明では論証したい結論(宗)を先に述べ、次に論証するための論拠(因)を述べ、最後に論拠を裏づける前例(喩)を持ってくる。本書の第4章では、因明を用いて無性有情(ブッダにも阿羅漢にもなれない衆生)の存在証明をする例を紹介している。それは以下のようなものだ。

 

一方の無性有情の存在論証は、次のようなものである。

主張(宗):(経典などに)説かれている無性有情は確実に存在する。

理由(因):有性と無性のどちらか一つに含まれるから。

例喩(喩):有性のように。

 

主張(宗):(経典などに説かれている)無性有情は確実に存在する。

理由(因):聖者によって説かれているから。

例喩(喩):有性を説く(経典の)ように。

 

無性有情の論証は二つの比量からなっている。一つ目は、「有」と「無」が相対的な言葉であることから、仏性などがあることを意味する「有性」という言葉があるなら、必ず「無性」もあるはずだ、ということである。二つ目は、ブッダをはじめとする聖者が説いた仏典中に、「一切衆生悉有仏性」などといった「有性」についての経文があり、それが実在するとされているのだから、同じく仏説に見える無性有情もまた実在するはずだ、という議論である。(p149-150)

 

有性と無性は対になる言葉なので、有性があるなら無性だって存在するはずだ……というこの議論は、私たちが抱きがちな「宗教論争」のイメージとはかなり異なる。火を噴くような勢いで対立する宗派を黙らせようとするのではなく、どこまでもロジックで相手を詰めていくのだ。最澄も徳一も因明を習得しているため、同じルールを用いて議論することが可能になっている。因明の議論の進め方は独特で、一読しただけではよくわからないところはある。だが、この時代に考えの異なる者同士が議論する方法が確立されていたことには、新鮮な驚きがある。

 

因明は、たんに仏教徒同士の議論だけに用いられたわけではない。異なる宗教や思想を相手にするときも、因明は使われている。たとえば明治以降の因明の入門書では、キリスト教徒と議論する例文も出てくる。ここで大事なのが、因明における「立敵共許」というルールだ。これは「議論するときに用いる概念は、両者が承認していなければならない」というものである。キリスト者A氏が仏教徒B氏に対して「父なる神は最後の審判の主催者である」と主張した場合、「父なる神」や「最後の審判」といった概念を仏教徒側が承認しなければ、議論は成立しないことになる。互いが受け入れている概念のみを用いて議論を進めるべき、というルールは、現代人にも受け入れやすいもののように思える。いきなり相手が知りもしない横文字を並べて圧倒しようとする、ネットでよく見かけるタイプの論客を、因明では認めない。

 

このように、『最澄と徳一 仏教史上最大の対決』では、ソクラテスの弁論術にも劣らない、高度に論理的なやり取りが日本仏教界でも行われていたことを教えてくれる。仏教は日本に入ってきて情緒的なものになった、といわれることがあるが、一方で日本にも因明を習得する伝統があった。因明は仏教徒だけでなく、知識人も教養として学んでいて、藤原頼長も因明の著作を残している。意外にロジカルな日本人の一面がみえてくる気がする。仏教徒にとり、議論は覚悟の必要な行為だ。論争を起こすと地獄に堕ちるという考えも存在していたからだ。だが徳一は「無間地獄に堕ちるかもしれない」としつつも、それでも真言密教に疑問を投げかけたこともある。そうすることで、智慧と理解を増やしたかったからだ。地獄へ行くリスクを背負ってでも議論をやめられないほど真摯な人物が、日本仏教史には存在していた。こうした仏教者や因明という学問の存在は、仏教史だけでなく、日本文化そのものに新たな光を当ててくれるもののように思える。

【感想】五胡十六国時代を舞台に、人型の麒麟と遊牧民の青年の友情と戦いを描く『霊獣記 獲麟の書(上)』

 

 

晋の統一ははかない。三国時代がようやく終わり、一見中華は平穏を取り戻したかにみえるが、少しづつ内乱の足音が近づいてくる。気候の寒冷化も進み、半農半牧の生活を送る遊牧民の青年・ベイラを取り巻く状況も厳しさを増す。収獲は年々減る一方で、羊もあまり子を産まなくなってしまう。『霊獣記 獲麟の書』は、匈奴に従う弱小部族・羯の小グループのリーダーにすぎないベイラがそんな苦境から身を起こし、麒麟の少年とともに乱世を駆け抜ける物語だ。

 

『霊獣記 獲麟の書』はスタート時点では、まだ晋の天下がつづいている。この時代を舞台にした小説はあまりないので、洛陽の描写も新鮮に感じる。ベイラは漢人の郭敬に連れられて洛陽をおとずれるが、街中では講談師が三国志の講談をしている。すでに三国時代は物語として語られる時代になっている。殷賑を極めるこの街で、ベイラは彼の運命の鍵を握るものと出会うことになる。見た目は10歳ほどの子供でしかない一角だ。

 

一角は、ベイラの頭から白光が天に向かって立ち上っていたという。ベイラはただならぬ運気をもっているのだ。ここで読者はベイラは何者なのか、やがてどのような名で歴史に登場するのか、と興味を惹かれることになる。この時代にくわしければ早い段階でわかるかもしれないが、かえって知識がない方が楽しめるかもしれない。のちにベイラが畑から掘り出す剣に刻まれた文字も、彼の正体を探るヒントになる。かなりの大物、とだけいっておこう。ベイラは時代を創る側の男なのである。

 

やがてベイラは成長するが、一角の方はまったく姿が変わらない。それは彼が麒麟だからだ。正確には麒麟の幼体だ。まだ幼いが、麒麟であるからにはその性質は仁である。血を見れば具合が悪くなり、死体を見れば吐いてしまう。いっぽう、ベイラは遊牧騎馬民らしく馬の扱いに長け、武勇に長じた戦士だ。乱世に乗じ、天下に名乗りをあげようとするベイラの道行きに流血は避けられない。本来ベイラのような匈奴の一員と、一角は相容れない存在だ。しかしそうであるがゆえに、一角がベイラの牽制役として重要になることもある。ゆきすぎた殺戮がベイラを危機に陥れることもあるため、一角は謀略や外交の重要性を訴える。戦わずして勝つのが孫子の理想ではないのか、と。

 

本作の魅力は、あまり他の作品では描かれない晋末~五胡十六国時代の状況がくわしく描かれていることだ。この時代の匈奴には、劉邦を圧迫していたころのような勢いはない。匈奴を実質的に束ねる左賢王・劉淵ですら、晋に飼われる傭兵のような存在に成り下がっている。匈奴の弱小部族の一員でしかないベイラの立場は、当然さらに苦しいものになる。この巻におけるベイラの最大の敵は東嬴公だが、この人物は晋の皇族でありながら、なんと奴隷狩りに手を染めていた。財政難に陥った晋の帝室は、皇族に異民族を奴隷として売り飛ばすことを認めていたのだ。東嬴公の矛先はベイラの一族にも向かい、ベイラは人生最大の危地に陥ってしまう。ここで味わう苦難は、のちに彼を人間として大きく成長させることになる。

 

この巻では第九章までベイラと一角の交流やベイラの苦労話が続き、ストーリーの進行はわりとゆっくりとしているが、十章からかなり物語が動き出す。ここでようやくベイラの正体が明らかになる。やっと歴史の表舞台に姿をあらわしたベイラの道のりはまだまだ長いものになるはずだが、作者はこのシリーズをどこまで書いてくれるのだろうか。ベイラのその後を考えるとあと一巻ではとうてい終わらなさそうだが、さてどうなるか。物語終盤ではベイラの部下として、仏教を信じ、略奪品を貧者に施す郭黒略のようなおもしろい人物も出てくることだし、長く続いてほしいシリーズだ。もっとも、続いてほしいのはベイラの甥で血気盛んなババルが成長し、(おそらくは)史上有名なあの人物になるところを見たいからでもあるのだが。

kindle unlimitedのおかげでネットから受けるストレスが激減した

「2ヶ月299円」のセール価格につられてkindle unlimitedをはじめて20日が経った。気づいたらネットから受けるストレスが激減していた。いろいろな電子書籍を読みあさっているうちに、ネット上の不快な情報に接することがほぼなくなったせいだ。以前は暇があるとだらだらとツイッターでの議論を見ていたり、話題になっているTogetterまとめを読んだりしていたが、人が議論している場では汚い言葉が飛びかうことも多く、読んだ後かえってストレスが溜まっていることも多かった。そこで有意義なものを読めるかはギャンブルだし、ネットの議論を追いかける刺激ジャンキーのような時間は減らしたいと前々から思っていたが、とくに努力することもなくこの時間をなくすことができていた。

 

 

これもkindle unlimitedで読んだのだが、やめたい行動はこの本では「過剰行動」と定義されている。ネットで不毛な議論を読んで消耗するのは私にとって過剰行動だ。これをどうすればやめられるか。その方法はこの本の第3章で解説されている。過剰行動を減らすポイントはいくつかあるが、そのひとつが「動機付け条件を取りのぞく」だ。つまり過剰行動のメリットをなくすことだが、この中には別のメリット(チェンジ行動)を用意することもふくまれる。禁煙したい人の場合、飴玉や離煙パイプを使うことがチェンジ行動になる。

 

 

私の場合、kindle unlimitedで本を読みあさることが、知らないうちに行動科学でいう「チェンジ行動」になっていた。kindle unlimitedでは光文社古典新訳文庫がたくさん読めるが、ギリシャ哲学やシェイクスピアの戯曲を読むことは(当然のことだが)ネットの議論を読むよりはるかに実りが多いし、外れを引くこともない。古典を直接読むのがむずかしいなら、漫画化されたものや100分de名著などを読めばハードルはだいぶ低くなる。行動科学ではチェンジ行動は過剰行動と同等のメリットを得られるものをさすが、古典を読むのは漫然とネットを読むよりはるかにメリットが大きいという実感があるので、当然こちらに集中することになる。『まんがで身につく続ける技術』には行動を増やしたりやめたりするのに意志や努力は必要ない、と書かれていたが、行動科学を応用すれば、確かに努力なしに過剰行動を減らせるようだ。

 

ネットのストレスを減らせているせいか、主観的にはkindle unlimitedのおかげでデジタルデトックスができているような気分になっている。しかしネットで電子書籍を読みあさりながらデジタルデトックス、というのも妙な話だ。PCから離れなければデジタルデトックスではない。だが電子書籍であれ、読書時間を増やすことでネットを利用するデメリットを減らせているのは確かだ。電子書籍を読むことでブログ記事のネタができるし、記事を書いているうちにますます余計な情報からは離れることになる。

 

問題があるとすれば、あと1ヶ月ほどで2ヶ月299円のキャンペーンが終わってしまうことだ。このあともkindle unlimitedを使い続けるかはわからない。ギリシャ哲学とシェイクスピアと仏典の面白さはもうわかったので、これらの本を紙の書籍で読むのもいいと思うが、電子書籍ならではのメリットもある気がしている。kindleのアプリにずらりと並んだ本のタイトルを見ているだけで読書欲が高まるし、主観では紙の本より電子書籍のほうがすぐ読みはじめられる。ネットを見るのと同じ感覚で読めるせいかもしれない。ということは、電子書籍を読むことも、本質的にはネットジャンキーと変わらないのだろうか。どうせ読まずにいられないなら、少しでも栄養になるものを読みたいものではある。

異性とは目も合わせないニートになれ!という「ヤバい教え」をなぜ信じるのか?ニー仏『だから仏教は面白い!』(kindle unlimited探訪7冊目)

 

 

「ニー仏」こと魚川祐司さんによれば、仏教、少なくともゴータマ・ブッダが説いた初期仏教は「ヤバい宗教」だったという。ヤバいといっても、危険だとか反社会的とかいう意味ではない。現代日本人の常識からはかけ離れた部分がある、ということだ。なにしろこの本では、冒頭から「異性とは目も合わせないニートになれ!」ブッダは出家者に説いた、とくり返し語られる。人間の自然な欲求に真っ向から逆らう教えだ。出家者は女性と冗談を言って楽しむのもいけないし、女性と会話したことを思い出すのもいけない、という経典もある。あまりにも厳しいので、梵天ブラフマン)がブッダのもとにあらわれ、説法するようにお願いしても、ブッダが断ったというエピソードまである。自分の教えが自然な人情に逆らうものだということを、ゴータマ・ブッダもよく理解していたのだ。

 

なぜ、こんなに厳しい教えに従わなくてはいけないのか。もちろん仏教の究極的な目的は悟りを開くことなのだが、別に悟らなくたって、人はそれなりに生きていける。確かに仏教が説くように、この世は苦(=不満足)で満ち満ちている。どんなに豪華な服を着ても、美しい伴侶を得たとしても、満足感はいずれ逓減する。だから人はまた新しい刺激を求め、飽くなき欲望を追求する。どこまでいっても煩悩が完全に満足することはない。

とはいえ、ニー仏さんが説くように、もし人生が一回きりなら、「快楽と苦痛のバランスシートで、一生のあいだに快楽のほうをプラスにできれ ば、それで人生は勝ち」ではある。「刺激ジャンキー」として生きたとしても、苦痛より快楽の多い人生だったなら、一生の終わりに「まぁいい人生だったな」と思いながら最期を迎えられるかもしれない。輪廻転生を信じない人なら、そんなにいやな思いをせず生きられればいいのだ。

 

だが、それはあくまで人生が一回きりなら、の話だ。ゴータマ・ブッダが生きた時代の人々はそうはいかない。なにしろ古代インドでは輪廻転生があたりまえのこととして受け入れられているのだ。さんざん頑張って一生かけてレベルを上げたのに、突然どこかで電源を落とされ、また生まれ直してレベル1からはじめる人生が延々とくり返される。この「永遠のRPGのレベル上げ」のような、不満足の生が続いていくのがインド文化圏における輪廻転生のイメージだ、とニー仏さんは説く。生まれ変わりが永遠に続くことが苦なのだから、ここから解脱したいと考える人が出てくる。出家して「異性と目も合わせないニート」になる動機がここに生まれることになる。

 

解脱して悟りに至るにはどうすればいいか。「仏教の実践」を読むと、テーラワーダではまず戒を守ることで、身体と言葉に表現される煩悩を抑制できると教えていることがわかる。だがこれだけでは心にあらわれる煩悩までは抑制できない。ここでサマーディー(定)が必要になる。サマーディーとは集中することで、実践法としては瞑想になる。瞑想で集中力を高めていくと知覚が変化し、「如実知見(=ありのままにものごとを見ること)」に近づくことができるというのだが、ここは言葉では説明できない領域になる。瞑想などに縁がない身からするとそういうものか、と思うしかない。

戒を土台として定を修めたあとは「智慧」(慧)が必要になる。業の潜在的エネルギーは戒と定だけでは滅することができないため、この源泉自体を智慧の力でふさいでしまわなくてはいけない。煩悩の流れをせき止めるために気づき、マインドフルネスの実践が大事になるが、ただ気づき続けているだけでは解脱には至らない。7章を読むと、どうやら気づき続ける修行をさんざんやったあとに解脱をもたらす「智慧」が生じてくるようだけれども、それがどういうものかは正直よくわからない。とにかく智慧を得ると「決定的で明白な実存の転換」が起こり、世界の見え方がまったく変わってしまうのだそうだ。そこまで行ったら、もう異性と目を合わせなくてもつらくはない。もうそんなものに執着することはなくなるのだ。

 

このように、輪廻の輪から抜け解脱したい人のために、仏教ではいろいろと守るべき決まりごとを設けている。では、「異性と目も合わせないニート」になる気がない人にとって、仏教の教えは意味がないものだろうか。必ずしもそうではないと思う。この本の6章では、「煩悩とは縁、つまり原因や条件によって生じたものにすぎず、それをあなた自身と思い込んではいけませんよ」とブッダが説いたことを指摘している。欲望とは勝手に心に浮かんでくるものでしかない、とドライに割り切れば、自分の欲の深さにあきれて自己嫌悪におちいることもない。それに、欲望が自分自身ではないと知ることで、それに振りまわされるのをふせぐこともできる。ニー仏さんに言わせれば、煩悩のままにふるまうことは人間の「ロボット化」だ。欲望の奴隷にならず、自分の行為や心理に自覚的になることで、「己こそが己の主人」であるような生き方に近づいていくことができる、とこの本では説かれている。この本でいう「金パン教徒(=金銭欲と性欲のために生きる者)」として生きるのもいい。でも人生はそれだけではない。欲望に振りまわされるのとは別のモードも人間にははあるのだ、という視座を与えてくれるところに、仏教のよさがあるのではないだろうか。

【書評】桑畑がナンパスポット、市場では受刑者の悲鳴……見てきたように秦漢時代の生活を描く『古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで』

 

 

こんなに秦漢時代の生活がくわしくわかる本はほかにない。当時の人間になりきり、午前五時頃から時間帯ごとに古代中国の民衆の生活を追っていく内容なのだが、扱う対象が幅広く、庶民の服装や食生活などから市場や盛り場の様子、果ては夜の営みにまで及ぶので読んでいて飽きることがない。画像も非常に豊富で、この時代の俑から痰壺、尿瓶、張型など下世話なものもたくさんとりあげているので、ビジュアル的にも庶民の生活がよくわかるようになっている。注記も豊富で、とりあげている話題がどの史料を根拠にしているか巻末にすべて記してあるので、この時代をさらに詳しく知りたい読者にも便利。

 

この本では色恋の話題が多い。古代中国における男女の出会いの場のひとつが桑畑だ。この本の9章で書かれている桑畑での出会いの様子は以下のようなものだ。

 

恋はしばしば道ばたでのナンパではじまる。桑摘みの季節になると、女性たちは桑畑で葉を摘む。それはウメの実が落ちはじめる晩春である。そこに美女がいると、未婚か既婚かを問わず、男性陣はすぐに声をかける。もし佩玉をもらえればOKのサイン。

ある男は妻とともに田畑に出かけ、近くの桑畑で働く美女を口説いている。だが失敗して田畑にもどってみると、妻は怒ってその場を立ち去っていた。なかには数年間の単身赴任を終えて郷里に戻った者が、途中で美女に声をかけたところ、じつは自分の妻だったという、喜劇とも悲劇ともつかぬ説話もある。夫が道ばたで桑摘み中の美女をナンパし、振り返ってみると妻もべつの男性に言い寄られていたとの笑い話もある。(p197-198)

 

男性陣はかなり見境がない感じがするが、OKサインが佩玉というあたりに古代中国らしい風情も感じられる。女性たちが桑畑で働いているのは、穀物以外の収入源として養蚕が大事だったからでもある。女性が麻と絹の生産を担当しているのは「男耕女織・夫耕婦織」を政府がプロパガンダとしていたから、というまじめな解説もあり、農作業の現場から古代中国人の男女観や産業構成を知ることもできる。

 

桑畑では男性は美女にばかり声をかけていたが、美しくて得をするのは女性ばかりではない。男性の場合、美男だと恋愛・結婚だけでなく、就職でも大いに得をする。第6章では役所のようすについて詳しく書いているが、官吏の顔面偏差値は高かったそうだ。この章によると「漢代ではイケメンであることが官吏の採用条件にふくまれることがあった」ので、そうなっているのである。この章ではイケメンの乗る馬車に女性がフルーツを投げ入れる様子まで書かれていて、女性も男性に劣らず美しい異性には積極的だったことがわかる。美しくない男性はどうかというと、「ブサイクが美男子のマネをして街中を闊歩しようものなら、女性陣から唾を吐きかけられる」とある。どうやら古代中国は強烈なルッキズムに支配されている社会だったらしい。

 

第7章の市場の描写も魅力的だ。面白いことに、この時代、いくつかの貨幣が使いわけられている。一番使い勝手がいいのは半両銭や五銖銭などだが、ほかにも麻織物や黄金・穀物などが貨幣として使われていた。市場は多くの人でごった返しており、当然喧騒に包まれているのだが、そのなかに受刑者の悲鳴が混じることもあったらしい。この時代、「棄市」といって罪人が市場で斬首刑になることもあった。イレギュラーな刑罰として「車裂」、つまり車裂きの刑もおこなわれ、運悪く生きのびてしまった受刑者の叫び声が市場に響くこともあった。市場はカオスな空間だったのだ。

 

10章では宴会の様子について書いているが、宴会の途中用を足すこともあるため、話題はトイレにも及ぶ。興味深いのは、この時代のトイレは建物の二階にあり、その下に豚小屋が設置されているものが多いことだ。豚が人間の排泄物を処理してくれるためである。そうして育った豚をのちに人間が食べるので、実に合理的だ。

トイレは歴史を動かす場にもなる。曹操の父・曹嵩や呂布が敵に襲われたときトイレに駆け込んでいるのは、多くのトイレが豚小屋の上にあり、そこから壁づたいに屋敷の外へ逃げやすいからだとこの章では解説されている。曹嵩がどうしてトイレなどに逃げ込んだのか以前から不思議に思っていたが、ここにようやく答えが見つかった。こういう小ネタがたくさん書かれているのが、この本のおもしろさだ。

著者は引き出しが豊富で、この章ではトイレの話からこの時代の痔にまで話が飛んでいる。古代中国での痔の治し方はなんと「他人になめてもらう」である。この治療法についてはさすがに著者も「はたしてだれがおこなってくれるであろうか」と突っ込んでいる。痔もちは穢れているとされたため、祭りで生贄にされることがないメリットもあったというのだが、古代中国の痔の扱いまで書いているのはこの本くらいではないだろうか。

 

 

このように、この本では古代中国人の生活についてかなり細かいところまでとりあげているので、この時代の日常生活について知りたい読者には最適の入門書になる。中国史を学ぶためだけでなく、中華風ファンタジーを書きたい人のネタ本としても絶好の一冊。もちろんただ興味本位で読むだけでも楽しい。古代ローマや中世ヨーロッパでは生活史の本がけっこう出ているが、古代中国史ではこのジャンルで気軽に手にとれるものがあまりないので、その意味でも画期的な一冊といえそうだ。

【書評】荘園を知れば日本中世史が圧倒的にわかる!伊藤俊一『荘園-墾田永年私財法から応仁の乱まで』

 

 

学問とは本来面白いもの、ということがこの本を読むとよくわかる。本書『荘園-墾田永年私財法から応仁の乱まで』は、荘園という一見地味で硬いテーマを扱っているが、その中身はといえば古代から中世末期にいたるまでのダイナミックな社会変動、土地制度にまつわる有名無名の人々の営みである。なにしろこの時代、人口の大部分は農民であり、荘園は農民の生活と労働の場であるから、荘園を知ることは中世社会そのものを知ることにもなる。荘園という覗き窓からみえてくる中世社会は、こちらの想像以上に活力と刺激に満ちている。これが面白くないはずがない。

 

荘園の実態は時代によって異なるが、第二章を読むと、摂関期における荘園は、江戸時代の農村とは異世界といえるほど違っていたことがわかる。天災が頻発し、古代社会の秩序が破壊されるなか、台頭してきたのは富豪層とよばれる有力農民だった。これらの農民は農業経営者としては田堵とよばれ、みずからの資本で経営をおこなう「プロ農民」だった。田堵はその経営力を見込まれ受領から荘園の耕作を請け負っていたが、自立性が強く、税負担の重い土地からは去ってしまうこともある。後世のように、先祖代々の土地を守る農民の姿はここにはない。多くの農民を引き連れ、威勢を誇った田堵も一~三年の短期契約で働いており、その立場は不安定だった。農民は田堵になれなければ田堵の従者になるか、田堵に雇われ耕作することになる。農民間での競争は激しく、農村の雰囲気は殺伐としていたと想像される。著者はここに不安定な競争社会である現代との共通点を見てとり、「昨今の日本がこの時代に似てきたようで心配になる」と不安を漏らしている。

 

本書は教科書の知識もアップデートしてくれる。日本史教科書に出てくる「寄進地系荘園」という言い方は、この本では使われていない。それは、この言葉が摂関期の免田型荘園をさすのか、院政期における領域型荘園をさすのかわからず、領域型荘園の画期性がみえなくなってしまうからだ、と第五章で解説される。摂関期の免田型荘園での寄進は貴族の権威を借りて国司の介入や収公から守るためのものだったが、領域型荘園での寄進は上皇摂関家の権力によって、山野を含む広大な領域を囲い込むためのものである。領域型荘園では、土地を寄進した在地領主は広い土地を管理でき、免田型荘園と違いはじめから不輸・不入の特権も認められたため、長期的展望をもって経営にあたれるメリットがあった。荘園が巨大になり収入が増えることで、巨大な八角九重塔をもつ法勝寺のような寺院の建築も可能になった。荘園は経済的に院政期の文化を支えていたのだ。

 

五章を読みすすめると、鎌倉幕府の成立が荘園に与えた影響がよくわかる。源頼朝は、武士の軍功への恩賞として、荘園や公領の所職(下司職や郡司職・郷司職など)を与えた。所職は実質的な土地支配権であるため、ここに土地を媒介とする主従制、西欧の封建制に似た体制が成立した。所職は1185年6月以降は地頭職の名称に統一され、所職の任免権が今後も頼朝にあることが明示された。鎌倉幕府は地頭職の任免権を握ったため、荘園領主知行国守から解任されることがなくなった。これは著者にいわせれば「在地領主層による巨大な労働組合ができたようなもの」ということになる。地頭職にある武士にとって、鎌倉幕府が権益を守ってくれる、実にありがたい存在だったことがわかる。

 

荘園は貨幣経済が進展する場にもなった。第七章には、宋銭が大量に流入したことにより、荘園にも貨幣経済が浸透し、年貢の代銭納化が進んでいく様子がえがかれている。荘園では年貢を納める手段は自由だったので、運搬の利便性をとるなら年貢は軽量な銭で納めたほうがいいことになる。年貢の代銭納化は年貢を集積し、京都へ運ぶ拠点となる港湾都市の発達をうながす。草戸千軒や尾道、十三湊などはこうした経緯で発達した港町である。

このように貨幣経済が発達するなかで、富を蓄えたのが「悪党」だ。年貢の代銭納化にともない、荘園代官が実入りのよい職になったためこの地位をめぐる紛争が激化し、紛争当事者に雇われるならず者として悪党が求められていた。悪党は異形の風体で人を驚かし、目的のためには武力行使もいとわない、鎌倉幕府の秩序から逸脱する存在だった。鎌倉幕府荘園領主の訴えにこたえ、六波羅探題に命じて悪党を召し取ったが、かえって彼らを敵に回してしまった。結局悪党の主敵は鎌倉幕府になってしまったわけだが、荘園経済が育てた悪党が、荘園経済によって立つ鎌倉幕府を滅ぼす一勢力になってしまうところには、歴史の皮肉めいたものも感じる。

 

このように、本書『荘園-墾田永年私財法から応仁の乱まで』は、荘園という切り口から日本中世史の数多くのトピックを語ってくれるので、硬い本なのに飽きることがない。荘園制度の変遷はそれなりに複雑なので楽に読めるわけではないが、これを一冊読んでおけば格段に日本史の見通しがよくなる。荘園に興味のある人だけでなく、日本史をもっと知りたい、深く理解したい、という人にも、これは文句なしにおすすめできる好著だ。