明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

人を信じる者と疑う者、どっちが探偵にふさわしい?米澤穂信『本と鍵の季節』

 

 

ここに二人の人間がいるとする。前者は性善説論者、後者は性悪説論者だ。あなたはどちらに探偵役をまかせたいだろうか。個人差はあるだろうが、多くの人が後者に探偵役を頼むのではないだろうか。現実でもミステリでも、犯人は必ず嘘をつく。性悪説論者のほうが、その嘘を見抜くき真相を暴くのにむいているだろう。人を疑わない性善説論者に探偵役が務まるのか、はなはだ心もとない。実際、多くのミステリではややひねくれた性格の人間が探偵役をやっている印象がある。だが人を信じることは、ほんとうに推理の邪魔になるのか。

 

『本と鍵の季節』において、探偵役を務めるのは図書委員の二人組、堀川次郎松倉詩門だ。この二人の個性はそのまま性善説論者と性悪説論者に対応させられるほど単純ではないが、どちらかというと堀川は素直な性格で、松倉はややひねくれていて人を信じないところがある。といっても、松倉が嫌なやつというわけではない。図書委員の後輩に頼まれれば、彼の兄の冤罪を晴らすため骨を折る一面もある。堀川も松倉を「皮肉屋だがいい奴」と評価している。『本と鍵の季節』はこの二人の異なる個性が、どちらも必要とされる作品だ。

 

本作において、この二人はタッグを組んでさまざまな謎を解いていくことになる。基本、二人とも頭はいいが、どちらかというと堀川の方が正攻法で謎解きに挑んでいる感じはある。堀川が一切人を疑わないわけではないが、彼はまず与えられた問いに真正面から取り組む。これに対し、松倉は問いを投げてくる人間を疑うところがある。一話の『913』では、祖父に託された金庫を開けてほしいという先輩の依頼に二人が応じる話だが、松倉はあまり乗り気ではない。先輩は自分の容姿が魅力的なのを自覚していて、堀川を利用しようとしている、と考えているからだ。つまりこの依頼自体にどこか不穏なものがある、ということになる。このような物事の裏を読む松倉の性格は、謎解きに大いに役に立つ。

 

堀川よりも世知に長けているところがあり、状況全般がよく見える松倉は、一見堀川より探偵役にふさわしいように見える。だが、それならどうして堀川も探偵役をしているのかわからなくなってしまう。だが人を信じやすい堀川の性質がいい方向に働く話もある。それが四話の『ない本』だ。三年生から自殺した友人が生前読んでいた本を探してほしいという依頼を受け、二人は調査を進めるが、この過程で堀川と松倉の見解に相違が生じる。くわしいことは語れないが、松倉のやや斜に構えた物事の見方が、この話では必ずしもプラスには作用しない。堀川も論理的必然性から人を疑うことはあるが、それでも彼はまず人の言葉を正面から受け止めるところがある。『ない本』はそんな堀川の美質を松倉が認め、二人の友情が深まる話でもある。

 

そんなにミステリを多く読んでいるわけではないが、私の経験上、堀川のような人物はミステリでは道化役になることが多い印象がある。だが『本と鍵の季節』では、堀川も松倉もともに探偵役として大切な役割を持っている。二人は互いの弱点を補完し合っているのであり、それだけにウマが合っている。探偵は人を疑えなくてはいけないが、疑えばいいというものでもない。だから堀川と松倉はタッグを組む必要がある。堀川と松倉という二人の個性がそれぞれの視覚から謎に光を当て、謎解きをつうじて二人の関係性が深まっていくところに、『本と鍵の季節』のおもしろさがある。

グイン・サーガがKindle Unlimited入りしたと聞いてノスフェラスの思い出がよみがえってきた

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そうか、とうとうグインサーガKindle Unlimited入りか……と、この記事を読んでしばらく感慨にふけってしまった。正編と外伝合わせて150巻以上、栗本薫が生前書いたものが読み放題対象になっている。これを全部紙の本でそろえるのは大変だし、こういう大部のシリーズこそサブスクで読むにふさわしい。

 

 

グイン・サーガヒロイック・ファンタジーの名作とよくいわれる。事実その通りなのだが、必ずしも全巻を高く評価できるわけではない。いにしえの書評ブロガーたちはこの作品にふれるとき、グイン・サーガは〇〇巻までは名作だった、とよく語っていたものだ。その巻数は人によって違うが、間違いなくいえるのは、辺境編は本当に傑作だということだ。なにしろここで描かれるのは、異世界であるグインサーガワールドの中におけるさらなる異世界ノスフェラスだからだ。

 

ノスフェラスというのは、ゲームオブスローンズにおける「壁の向こう側」に当たると考えるとわかりやすい。そこは人が住むのに適した土地ではなく、人間以外の様々な種族や怪物が住んでいる魔境なのだ。もっとも、ノスフェラスは壁の向こう側よりもさらに厳しい土地だ。地域全体に瘴気が漂い、矮小な体躯を持つセム族や、巨体を持つ幻の民ラゴンなどが住んでいる。さまざまな不気味な生物も棲息しているが、とりわけ恐ろしいのが巨大な不定形生物のイドだ。キングスライムなどよりはるかに手強いこの敵を豹頭のグインがどう退けるか、も辺境編の見せ場のひとつだったりする。

 

グイン・サーガをはじめて読んだとき、私はこのノスフェラスにすっかり魅せられてしまった。作家は創造力ひとつで世界をまるごと一個作りだせてしまうことを知った。サバクオオカミがうろつき、大食らいが巨大な口で食らいついてくる危険極まるこの世界で、主人公グインと、突如転移装置でここへ飛ばされてきた双子のリンダ王女とレムス王子は冒険を繰りひろげる。この地をめざして兵を繰り出してくるモンゴール公国との戦いも手に汗握るものだが、結局のところ、辺境編の魅力のもっとも大きな部分を占めているのは、このノスフェラスという妖しい世界そのものだったと思う。

 

だからこの辺境編が終わり、グインと双子たちがノスフェラスを去ることになったときは、妙な寂しさがあった。ここからは人間たちの物語になるんだな、という予感がしたからだ。グイン・サーガはファンタジーだし、ここから先も超自然的要素は何度も出てきているが、それでも辺境を去ったあとは国取りの要素が前面に出てきた印象はある。栗本薫があとがきで「ここから先は三国志になりますよ」と書いていたのは何巻だったか。一度は滅びたパロ(リンダとレムスの故国)を奪還しなければいけないのだから、国盗りの話になるのは当然なのだが、もう少し長くノスフェラスを旅していたかったという感覚がその頃はあった。中世ヨーロッパみたいな世界ではなく、この地球上には絶対に存在しないものを書いてこその「ファンタジー」だと、当時は思っていたからだ。

 

 

グイン・サーガの作中では、このノスフェラスにどうしようもなく魂を引かれる人物が出てくる。草原の王国・アルゴスの「黒太子」スカールだ。彼がノスフェラスに惹かれていくきっかけはネタバレになるので書けないが、この危険極まりない土地へ尋常でない興味を抱くスカールの姿は、どこか読者の心を代弁しているようなところがある。本当の意味での「異世界」とはノスフェラスのような場所であり、読むだけでこの別世界へとトリップできるのがファンタジー小説の醍醐味だ。そういえば、あらたにこのシリーズを書き継いだ五代ゆうは、新シリーズ最初の巻『パロの暗黒』の冒頭で、リンダがノスフェラスを思い出すシーンを書いている。これは長年読みつづけてきたファンの心をくすぐる演出だ。すべてはノスフェラスからはじまったのであり、読者の心はいつだってそこに帰っていく。今生きているこの場がすべてではない、と感じていたい読者にとっては、あの恐ろしくも魅惑的な土地こそが心のオアシスだったのかもしれない。

『完訳 華陽国志』の巴志の部分が志学社のサイトで読めます

 

『完訳 華陽国志』のうち30ページほどが志学社のサイトで試し読みできるようになっていた。華陽国志とは巴・蜀・漢中を扱う地誌で、中国版風土記みたいなもの。巴志の部分を読むだけでもこの本の雰囲気がよくわかるので、気になっている方はぜひ読んでみてほしい。

 

shigakusha.jp

巴志の中には他の史料では読むことのできない記述が多い。たとえば巴には白虎を狩る勇敢な人々がいて、秦末には劉邦につき従い各地で戦功をあげたという。虎射ちを生業とする彼らは劉邦から租税や徭役を免除されており、「白虎復」「板楯蛮」などと呼ばれていた。これらは『史記』では得られない情報だ。正史ではわからない異民族の実態を知ることができるのが巴志を読む愉しみのひとつになる。

 

巴の人々の人となりについては、正直で人情に厚いが、のろまで愚かだという。風俗は素朴で、人々は気の利いたことはいえない。中原から遠いせいだろうか。とはいえ、儒教が浸透して以降、巴は優秀な人材を多数輩出している。前漢の諫議大夫をつとめたびたび天子に諫言した譙玄、司隷校尉となり公明正大な賞罰をおこなった陳禅、広く民衆に恩恵を施した揚州刺史の厳遵など、能力だけでなく人格も優れた人物が巴には多いようだ。

 

 

『完訳 華陽国志』の解説部分には「前漢末から魏晋時代に割拠した公孫述、劉焉・劉璋父子、劉備諸葛亮蜀漢の人物、成漢の李特・李雄らについては『後漢書』・『三国志』・『晋書』よりも豊富な材料を提供する」とあり、巴蜀地方に関心がある人、三国志の蜀ファンにとっては待望の完訳といえる。

『中世への旅 都市と庶民』『中世への旅 農民戦争と傭兵』も復刊決定!

 

『中世への旅 騎士と城』に続き、『中世への旅 都市と庶民』『中世への旅 農民戦争と傭兵』も復刊が決まった。これはめでたい。『騎士と城』の予約が一万冊を超えたとのことなのでもしかしたら……とひそかに期待していたが、本当に残り二冊も買えることになってしまった。本が売れないご時世にはめずらしく明るいニュースだ。

 

一番めでたいのは『中世への旅 農民戦争と傭兵』の復刊ではないだろうか。『中世への旅 騎士と城』と『中世への旅 都市と庶民』は図書館ではよく見かけるが、『中世への旅 農民戦争と傭兵』は大きな図書館でなければ置いていないこともある。ドイツの農民戦争を取り扱った本はそうそうないし、ドイツの傭兵のみを取りあげている本も『ドイツ傭兵(ランツクネヒト)の文化史』くらいしかない。この本は専門書で高いので、中世への旅シリーズのほうがドイツ傭兵について知るには手ごろだ。

 

『中世への旅 都市と庶民』はおもに中世ドイツの都市や農村での生活について書いている。読んだのはだいぶ前なのであまり内容を覚えていないが、「町の城壁は敵軍を撃退するため熱した油をかけたせいで変色している部分がある」など、『狼と香辛料』の都市描写の元ネタと思われる個所があった記憶はある。『騎士と城』よりも生活感が感じられるので、個人的にはこちらの方が読みやすかった。

 

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『中世への旅 騎士と城』の内容はすでに紹介したので、残り二冊も手に入り次第紹介したい。『農民戦争と傭兵』が手に入るのはまだ先のことになりそうなので、それまではドイツ傭兵部隊「ランツクネヒト」に三章も割いている『傭兵の二千年史』を再読しておくことにしよう。これもドイツ史家の菊池良生氏が書いているのでドイツの話題が多いです。

 

 

「カール禿頭王は本当に禿げていたか」を考察した論文があった

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中世ヨーロッパはあだ名の時代だ。似たような名前が多くて区別しにくいので、カロリング朝時代には単純王や短躯王、敬虔王など、さまざまなあだ名が歴史書に登場してくる。これらカロリング朝諸王の中、とりわけ印象に残るのは「禿頭王」カールだ。彼の頭部についてはフクバルトによる「カールのハゲ礼賛の韻文詩」が書かれているが、なぜ禿頭に礼賛されるほどの価値があったのか。この問いに、以下の論文は答えている。

 

カール禿頭王は本当に禿げていたか

 

この紀要論文は全14ページと短いので、興味のある方はぜひ直接読んでほしいが、内容をここで簡単に紹介しておく。まずローマ時代には男性の頭髪は短く、長髪は蛮族の特徴とみなされていた。ローマから見ればゲルマン人は蛮族だが、ゲルマン人のなかでもメロヴィング朝の王たちは特に髪を長く伸ばしていたという。これはローマ文化に対抗するためだったと本論文には書かれている。

 

メロヴィング朝時代は髪を長く伸ばしていたのは王だけで、臣下には長髪は許されなかった。つまり、メロヴィング朝の宮宰を勤めたカロリング家の人々は短髪だったと考えられる。そしてカロリング家のピピンが751年にメロヴィング家にとって代わっても、王は短髪のままだった。カロリング家の人々は、長髪を権威の象徴とはみなさなかったのだ。

 

全員が短髪だったというカロリング朝において、カールの「禿頭」は何を意味するか。本論文の著者・赤坂俊一氏は、カロリング朝時代の王が王冠をつけた姿で描かれることに注目し、王冠をつけた短髪の国王の頭部が聖職者のトンスラ(頭頂部を剃った髪型)に似ていると指摘している。つまりフクバルトのハゲ賛美はトンスラ賛美であり、聖職者の頭頂部と王冠を対応させてカールを称賛している、というのだ。カロリング朝の王たちは、代々教皇の塗油を受けて王位についている。聖職者に似た頭部を持つカールは、キリスト教世界の王にふさわしいということだろうか。

 

本論文によれば、カールが実際に禿げていたのかははっきりしないそうだ。カールの絵には短髪が描きこまれているが、一方で『フランクの王たちの系譜』には禿頭王カールとはっきり記述されている。しかしカールが禿げていなかったのなら、なぜ彼だけが「禿頭王」と呼ばれたのかがわからなくなる。王冠をかぶった頭部がトンスラに似ているというなら、それは他の王にも当てはまるからだ。やはりカールは禿げていたのではないか。カールの治世は言うことを聞かない貴族や、ヴァイキングの侵攻に苦しめられた時代だった。争いが絶えなかったことによるストレスが、彼の頭部をさびしいものにしたのかもしれない。

緑色の表紙の本ばかり選ぶと何が読めるのか

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表紙が緑色の本ばかり選ぶ人がいるらしい。緑が表紙のどれくらいの割合を占めていればいいのか、表紙とは背表紙も含むのか、などの疑問がわくが、そこはあまり細かく考えないことにして、「とにかく緑っぽい本」を選ぶと何が読めるのか試してみた。手元にある本から選んでいるのでジャンルが偏っていることはあらかじめお断りしておく。

岩波新書の青版

緑色の本、というとまず古い岩波新書が思い浮かぶ。だが正確にはこれは「青版」で、1949年から1000点が刊行されている。青版には森島恒雄魔女狩り』、田中美知太郎『ソクラテス』、貝塚茂樹諸子百家』、吉川幸次郎漢の武帝』などの古典的名著が多い。なかでも『ソクラテス』はクサンティッペが本当に「悪妻」だったかについて考察を加えているところが興味深い。書かれた時代が時代なので内容は古びているものが多いが、昔の学者は格調高い文章を書く人が多く、味読できるという点では今でも十分読む価値はある。

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本と鍵の季節

「緑の表紙の本」を選ぶ人が雰囲気重視で選んでいるとしたら、たぶんこういうのが欲しいのだろう、といった感じの本。図書委員の堀川次郎松倉詩門が図書室にもちこまれる謎を解いていくシリーズだが、米澤穂信なので謎解きの面白さと時おり混じるビターな味わいは健在。古典部シリーズと違って探偵役が決まっているわけではなく、堀川と松倉のやり取りの中で推理が進んでいくのが本作の持ち味でもある。現代が舞台なのに、時おり妙に古典的な表現が混じるところもいつもの米澤穂信という印象で安心感がある。

 

人を動かす

人を動かすには自己重要感(重要人物であろうとする欲求)に訴えるのが大事ですよ、と繰り返し訴えている本。古典的な自己啓発書であり、人間学の本でもある本書では、リンカーンの面白エピソードが紹介されている。若いころ手紙でさんざん人を煽っていたリンカーンはついに決闘沙汰にまでなり、あやうく命を落とすところだった、というのだ。この経験から、彼は手厳しい非難はなんの役にも立たないことを学んだという。本書の表紙が緑色なのは、「他者の自己重要感を満たしてあげれば安全に生きられ、あなたの心も平穏になりますよ」というメッセージだったりするのだろうか。

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中央公論社 世界の歴史シリーズ

このシリーズも「表紙が緑の本」にカウントしていいだろう。かつて中央公論社から出ていた旧世界の歴史シリーズも箱の字が緑色だったので、中央公論社は緑にこだわりがあるのだろうか。歴史に強い中公だけあって内容は手堅く全般的におすすめできるが、『イスラーム世界の興隆』『古代インドの文明と社会』『ビザンツとスラブ』あたりは読み物としても面白い。『アジアと欧米世界』の川北稔氏(『砂糖の世界史』著者)執筆部分は経済史として読みごたえがあり、なぜ世界が今のような姿になっているのかを世界システム論を用いて記述している。こうした巻があるのも、物語的記述に徹していた旧シリーズにはない魅力になっている。

草食系男子の恋愛学

出版された当時、はてなではこの本をめぐって、さまざまな議論がおこなわれていた記憶がある。昔のはてなは男女論が活発だったことに加え、著者の森岡氏もはてなダイアリーを書いていたからだ。男らしさをあまり持たない男性がどう女性と関わっていけばいいかを森岡正博氏が解説する内容だが、恋愛を題材に男性の性役割を考察する、森岡氏なりのジェンダー論でもある。緑を基調とした表紙は「草食系」をイメージさせるにふさわしい。

ロードス島戦記 誓約の宝冠1

ちょっと緑率が落ちてきた感があるものの、これくらいならまあいいか。背表紙も緑色だし。ファンが待ちに待ったロードス島の新シリーズがようやく始動……したはいいものの、まだ続巻が出ていない。この島の遺跡は探索され尽くしていて、もう冒険者が出る幕がなさそうなので、純然たる戦記が展開しそうだが、果たしてどうなるか。表紙デザインが緑が基調なのはハイエルフであり、森の住人であるディードリットのイメージに合わせたからだろう。旧ロードス島キャラ中唯一の生き残りは、無限の寿命を持つディードリットだけになってしまった。

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洋泉社の歴史新書全般

かつて洋泉社から刊行されていた新書レーベル「歴史新書」もそこそこ緑度が高い。ほぼ日本史の本ばかりだったので表紙が緑地に扇?のデザインになっている。このレーベルは地味ながら面白い本が多かったが、もう古本屋でしかお目にかかれない。『戦国合戦の舞台裏』は戦国時代の情報伝達システムや兵粮の運び方・陣中での過ごし方・退陣の作法など、この時代の戦場の空気を活写したもので、歴史新書の特色がよく出た一冊だった。

辺境の老騎士Ⅱ 新生の森

なろう発の名作『辺境の老騎士』シリーズの二作目。死に場所を求め旅に出た老騎士バルド・ローエンがグルメを楽しみつつ人助けもする一粒で二度おいしい作品だが、緑にこだわると二巻から読むことになり、ちょっと内容の理解が追いつかないところが出てくるかもしれない。一巻ではバルドの過去についてくわしく書かれていて、彼の人となりがよくわかるので、できれば最初から読むのを推奨したい。表紙が緑基調なのはサブタイトルが「新生の森」であるせいか。

戦国の軍隊

これは緑というよりビリジアンになるだろうか。とりあえず緑のカテゴリには入りそうなのでよしとする。戦国時代の軍隊の実態を分析したもので、侍が正社員、足軽が非正規雇用者など、現代の組織になぞらえた解説がわかりやすい。戦国期では早くから兵農分離していたこと、武田信虎足軽を活用して国衆を撃破していたことなど、この本ではじめて得られた知見は多く、この時代に少しでも興味のある読者なら楽しめることは間違いない。

伊達女

これもビリジアンか。義姫や愛姫・五郎八姫など、伊達家の女性たちの生きざまを描いた短編集だが、特に正宗の母・義姫が主人公の『鬼子母』が印象に残った。本作での義姫は伊達と最上の仲介をする気丈さを持ついっぽうで、政宗への愛情も強い人物と描かれている。政宗と義姫の中は良好だったとする研究成果が反映されているようだ。人物描写に新鮮味を出すために歴史学がうまく取り入れられた好例といえる作品。

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中公新書

中公新書もビリジアンかもしれない。言わずと知れた有名レーベルで、歴史系に強いのが特徴。おすすめ本はたくさんありすぎて紹介しきれないので、とりあえず大河ドラマの参考になりそうな『徳川家康の決断』をここでは挙げておく。著者は徳川家康ひとすじに研究してきた方で、この本では家康の人生を10ポイントに分けて解説している。こうした簡潔で優れた人物伝が中公新書には多い。

中国歴史地図集(1955年)

表紙が緑色だから、という理由だけでこの本を買う人がいたらちょっと凄い。中国史を時代別に扱う内容なので当然中身は濃いが、全部中国語なので東洋史専攻の学生か歴史マニアくらいしか買わなさそう。今手元にあるのは隋・唐・五代十国時代の地図だが、ウイグル突厥渤海吐蕃南詔がメインの地図まである。私はだいぶ昔神田の古本屋で買った。

多田武彦男声合唱曲集

表紙が緑色で本の形をしていればいいのなら、これも入れられる。楽天ブックスでも売っているからたぶん本だ(本当は楽譜)。巻末に草野心平中勘助北原白秋などの詩も載っているからぎりぎり詩集扱いもできるか。男声合唱と関係ない人が表紙の色だけで買ったらすごい。

 

ここまで書いてきてあらためて思うのは、緑色の本は珍しいということだ。駐車場で緑の車を見つけるのがたやすいように、緑色の本は目立つ。表紙買いに徹するなら、何を買うか迷うことはあまりない。それでいて緑色の本は多くのジャンルにまたがって存在しているので、表紙買いでもけっこう多様な本が楽しめたりする。この記事では理系の本やビジネス書などは紹介できなかったが、岩波新書の青版や中公新書にも科学の本はあるし、投資本にも緑の表紙のものがある。表紙の色だけで選んでも、案外いい読書ができるかもしれない。なお、『経済ってそういうことだったのか会議』は著者の経済学者T氏を嫌う人が多すぎるので怖くて内容を書けませんでした。

 

 

表紙の色にこだわる人は、おそらく物としての本を大切にしているのだと思う。今は電子書籍が普及しているから、本は文章さえあればそれでいいという人もいる。だが、部屋に置く本はインテリアの一部でもあるので、やはりデザインは大事。どうせプライベートな空間に置くなら好きな色の本がいいという視点はありえる。私自身は表紙の色にはこだわらないが、思わず手に取りたくなる本には緑色の表紙のものもある。インドリダソン『緑衣の女』やケイト・モートンの『湖畔荘』、瀬尾まい子『そして、バトンは渡された』などはまだ読んでいないが、鮮やかな緑色が目を引く作品だ。表紙が緑色の小説は少ないので、緑を効果的に用いた作品は手元に置いておきたくなるのだろうか。

『中世への旅 騎士と城』が無事重版決定したので内容を紹介する

 

 


 

中世への旅 騎士と城』がラノベ作家のツイートをきっかけに急に話題になったことで、再々重版まで決まってしまった。まだ注文が止まらないらしく、楽天では現在発送が五月上旬になっている。この本の内容が気になっている人もいると思うので、内容について簡単に紹介しておく。

 

ハインリヒ・プレティヒャ著『中世の旅』シリーズは中世ヨーロッパ生活史の古典的名著として知られているもので、『騎士と城』のほか『都市と庶民』『農民戦争と傭兵』の三冊が出ている。『騎士と城』はタイトル通り中世の騎士と城砦にスポットを当てた内容で、城の構造や設備・城に住む人々の食事や生活・騎士の戦争や攻城戦のやり方など、中世ヨーロッパの城郭にまつわる一通りの知識をこの本で得ることができる。著者がドイツ人なので、中世ドイツについての記述が中心になるが、取り上げている事項が多いので、中世ヨーロッパに興味のある人なら楽しく読めることは間違いない。

 

騎士にがどんな存在かついては、この本の「騎馬兵、騎士、盗賊」の章を読むとわかる。これはドイツ史の本なので、ここではドイツ独特の不自由身分の騎士「ミニステリアーレ」の紹介が中心になる。中世ドイツにおいて、騎士の四分の三はミニステリアーレで、彼らは主君の居所や領地の管理者であり、そして軍務に服する者として王や領主に奉仕する存在でもあった。

ミニステリアーレは不自由民だが、身分としては農民よりも上だが貧しい者もいるため、富裕農民に見下されることも少なくなかったという。たとえ貧しくとも騎士身分であるからには、騎士としての徳が求められる。勇気や忠誠心は当然として、節度を失わないこと、困窮した未亡人や子供、孤児を保護する優しさを持たなくてはならない。しかしそれはあくまで理想像であって、現実の騎士は「荒々しい暴力がことを決定するという例がしばしばあった」。フリードリヒ赤髭王が子息に行った刀礼は騎士道の模範とされたが、彼は捕虜の鼻と耳を切り落とさせたことでも知られている。時代が下ると、こうした騎士の野蛮な面が目立つようになり、盗品で生活する「盗賊騎士」すら出現している。「騎士貴族」になる者がいる一方で、このように野盗同然の存在に身を落とす騎士が存在したことも、中世ドイツの現実だった。

 

この本は城砦についての記述が豊富だ。中世ドイツには一万もの城があったというが、この本ではドイツの城郭を頂上城(ギブフェルブルク)・半島城(ツンゲンブルク)・水城(ヴァッサーブルク)などいくつかの種類に分類している。城の中の施設の描写もくわしい。なかでも「ベルクフリート」と呼ばれる塔の記述には力が入っている。ベルクフリートの頂上では番人が周囲を見張っていて、城に近づくものがあれば角笛や叫び声で城の住人に知らせる。攻城戦がはじまれば、ベルクフリートは城兵の最後の逃げ場にもなる。そして塔の最下層は土牢があり、捕虜はここへ綱で釣り降ろされる。「地面には汚物や糞がうず高く積み上がり、蛇や蛙や、その他、毒虫もうようよしていて、地下水のしみ込んでくることもまれではない」と、この土牢の描写は妙に生々しい。ひとたび捕虜にされたものはこの不快な土牢で、一日一片のパンと水差し一杯の水で耐えねばならなかった。

この本は城の構造だけでなく、城で暮らす人々の生活の記述も充実している。食事にもかなりページが割かれていて、『ぶどう酒にも胡椒を入れて』の章を読むと、城中では肉料理が重視されていたことがわかる。メニューに並ぶ料理で重要だったのは鳥肉で、鶏や鵞鳥、鳩などが食べられていた。中世ならではのご馳走といえば孔雀で、これはキリスト教において「極楽の鳥」と位置づけられ、不死の象徴だからであった。孔雀はドイツだけでなく、イングランドやフランスでも食されていて、フランスでは孔雀の焼肉に羽根帽子をかぶせて食卓に並べたという。孔雀とともに味わう葡萄酒には胡椒が入っていて、胡椒でひりついたのどの痛みをさらに胡椒入りの葡萄酒で洗い流すなど、現代人には理解しがたい食習慣も、当時は存在していた。

 

この本では戦争の様子にも一章を割いているが、ここで描かれる戦争の実態はあまり勇ましいものではない。「騎士たちの実践の具体的な展開については、我々にはごく漠然としかわからない」ので、騎士たちの戦いぶりについては簡単な記述にとどまっている。一方、負傷者や略奪の被害者など、戦争の犠牲になる人々の描写はけっこう詳しい。なかでも興味を惹かれるのは捕虜の扱いだ。鎧をはがされるだけならまだいい方で、時には下着まで奪われてほぼ裸にされ、馬の背にまたがらせられ、両手を縛られたまま牢へ連れていかれる。ベルクフリートの土牢の酷さは前述したとおりだが、捕虜はこの牢の中で身代金が届くのを待たねばならなかった。身代金はときに驚くほどの高額になる。1270年には千五百マルクで釈放された騎士がいたが、これは馬五百頭を買える金額だったという。当時の戦争において勝者は、こうした巨額の身代金を得られるメリットがあった。

 

以上、一読して面白かった個所をいくつか紹介した。ここに書いたこと以外にも、騎士文学や中世のファッション、城中での労働や娯楽、騎士の決闘、十字軍についての記述もあり、内容はかなり充実している。創作で城の生活や攻城戦の描写をするうえでは間違いなく参考になるし、ただ読むだけでも楽しめる一冊。姉妹編の『中世への旅 都市と庶民』も本書が売れたせいか中古価格が高騰しているので、できればこちらも再販して欲しいところ。