小説を書く者にとって、最も辛いこととは何だろうか。普通に考えれば、「作品をけなされること」がまず思い浮かぶ。精魂を込めて書いた作品を批判されるのは辛い。作品を書く者は、多かれ少なかれ自分で面白いと思うものを書いて公開している。しかしそれはあくまで思い込みであり、客観的な批評の目にさらされるといかに自分が自分を過大評価していたのかを思い知らされる。
しかし、個人的にはこれが最も辛いことであるとは思わない。ただの罵倒でもない限り批判されたことは次の作品に生かせるし、そもそも批判されるということは、読まれているということなのである。つまらない作品は途中で投げ出されて批判すらされない。自分の中に書きたいという情熱があれば、批判も糧として先に進むことができる。だから、批判されることで決定的に心を折られてしまうというわけではない。
では、自作を批判されるより辛いこととは何か。それは、他人が自信満々で公開した作品がとてもつまらなかったとき、である。
もうだいぶ前のことになるが、知人が書きかけの小説を「これはかなりいいと思うんだけど……」と恥ずかしそうに見せてくれたことがある。しかし読んでみると、魅力のないキャラクターにどこかのゲームの世界をそのまま借りてきたような陳腐な世界観、盛り上がらないストーリーに拙い文章と、どこを褒めていいのかわからないような内容だった。
つまらない文章を読まされるのはそれ自体苦痛なのだが、それが辛いと言いたいのではない。そうではなく、「自分のやっていることも傍から見たらこの程度なのではないか」と思わされる、そのことが何よりも辛い。自分の作品は誰だって自分で評価を水増ししている。自惚れで補正がかかっている。しかし他者の目に触れると容赦なく補正が剥ぎ取られ、剥き身の哀れな姿がさらけ出される。自信を持って書いた作品の読者が、いま自分自身が味わっているのと同じ苦痛を味わっているのか?と考えると、恐怖で身がすくむ思いがする。
奥田英朗『空中ブランコ』は阿部寛主演でドラマ化されたことがあるが、このドラマの中で、主人公である精神科医・伊良部は、患者が陥ってる症状と同じ症状を自分自身が演じてみせ、客観的には患者の行為がどれだけの奇行であるかを容赦なく突きつけていく。伊良部は患者の痛さを自覚させることで、自然と自分自身と向き合えるように「治療」しているのだ。他人のつまらない作品を読むことは、これとよく似ている。創作という熱病にかかっている患者に、「お前はこんなに痛い行為をしてしまっているのだ」と冷水を浴びせかけ、目を醒まさせる効果があるのだ。
- 作者: ロルフデーゲン,Rolf Degen,赤根洋子
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自分を客観視することが大事だ、とはよく言われることである。しかし創作をする上では、過度な客観性は創作意欲を削いでしまうのかもしれない。ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』には、自分を客観視できる人はうつ病になりやすい、ということが書かれている。人は多少自惚れるくらいでないと、精神的な健康を保つことができないようだ。
ある程度自作に自信がなければ公開することができないから、自惚れは必要だ。自分自身ですら良いと思わない作品を見せるわけにはいかない。しかし自信過剰が過ぎると自作を突き放して見ることができず、欠点を修正し克服していく機会を失ってしまう。創作意欲を失わず、かつ自信過剰に陥らない適度な自己評価を保つにはどうすればいいのか。これは自分の中でもまだ答えは見つかっていない。おそらく永遠の課題なのではないかと思う。