明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

人はなぜ、創作をするのか

そんなことをときどき考える。

創作で人から褒められたり、認められたりした時の喜びはとても大きい。もちろん創作をすること自体が喜びではあるのだが、やはりそれだけで十分とは言えない。時に人から作品を評価してもらえるからこそ書くエネルギーが沸くし、そういうことが全くなくても続けていられるのか、と問われるとだいぶ厳しい。

「人に親切にする方が認められやすいのに、どうして人は創作で人から認められようなんて難しいことをしようとするのか」と言っている人を見たことがある。一見もっともらしく聞こえるし、確かに「認められる」という1点に絞ればそれこそ他人に親切にして回ったほうが効率がいいだろうが、それが誰もが欲しがる「認められ方」であるとは限らない。おそらく創作をする人の多くは、そういう認められ方では満足できない人が大半だ。

人には返報性の心理というものがあるから、親切にすれば、大抵の場合は親切が返ってくる。しかしこれは自動販売機に120円を入れれば缶ジュースが落ちてくるというのと似た感覚で、当たり前のことが当たり前に起こっているだけだ。人に親切にすることはいいことであるには違いないのだが、ここに特別なことは何もない。もともとあまり社交的な性格でない場合は、人に親切にすることは結構労力のかかることで、自分の中の何かを切り売りするような感覚に陷ることもあるかもしれない。そして、創作が好きな人は往々にしてそういう性格であったりする。

おそらく創作をするような人は、そういう「親切で親切を買う」ような方式ではなく、もっと違った認められ方をしたいのではないかと思う。親切にして喜ばれよう、というのは、どこか発想が労働に近い。自分の中の何らかのリソースを他人に割き、その対価として認められよう、という発想だ。しかし創作という行為は、どこかこうした行為とは別種のものであるという感覚がある。多くの労働においては人は多かれ少なかれ自分らしさをある程度抑え、他人を喜ばせるように自分自身をカスタマイズしていかないといけない。しかし創作というのは逆に、自分らしさをどこまでも突き詰めていくことで人から評価されることができるのではないか、と期待させるところがある。現実に音楽や小説で食べているような人からはそんな甘いものではないと言われるのかもしれないが、少なくとも個性が売りになるという幻想がある程度成り立っているからこそ、クリエイティブと呼ばれる職種の多くは供給過多になっているのではないかと思う。

創作というある意味他人に親切にすることよりも膨大なリソースをつぎ込む行為をして、それで認められると殊更に嬉しいのも、「自分が自分であることによって評価される」という、他ではあまりできない体験ができるからだろう。多くの人は、自分がかけがえのない存在であるということを、自作を通じて体験したいのだ。その喜びがとても大きいからこそ、傍から見ればばかばかしいほどの労力をつぎ込んで、人は創作に打ち込む。効率がとても悪いように見えても、実は感情の収支はきちんと合っているのだ。

誰かにとってのヒーローでありたい。そんな切ないまでの感情を叙情的に描いた小説を最近読んだ。

その白さえ嘘だとしても (新潮文庫nex)

その白さえ嘘だとしても (新潮文庫nex)

 

 こういうことは現実には起こりえないとしても、誰かひとりでも良いといってくれる作品を書けたなら、誰かがわざわざ時間を割いて読む程度には、その作品はその人にとっての特別な存在になれたのだ。大勢の支持を得られなくても、それは女の子のなくしたヴァイオリンの弦を探しあてるのと同程度に価値のあることなのだと思う。