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僧侶が指摘する、ブログが苦しい理由
久々に小池龍之介師の『考えない練習』を読み返していたのですが、ブログについて書かれている部分で色々と身につまされる箇所がありました。
自分が書いて日記を公開する、そこに「誰かに認められたい」「自分のことを知ってほしい」という欲求が生じ、「まだそれが実現していないよ」と思う苦が生じます。
そこでコメントが5件ついたら、そのときは嬉しく感じるでしょう。「誰かに認められたい」という苦が一瞬だけ消えるので苦が減って嬉しいと感じるのです。
しかし、そこでいったん苦が消えても、その後に「次も良い文章を書かなきゃいけないけれど、良い案が思いつかない」「ちゃんと書けるだろうか」という苦や、さらには、5件のコメントでは満足できなくなって、「もっとコメントが欲しい」という苦も生じてきます。
簡潔ですが、ブログ運営の苦しさを見事に表現していると思います。
PVや収益を増やすために頑張っている人の中には、自分には何かが足りないと思っている人も多いと思います。
その足りないものとは人からの賞賛であったり、アクセス数やブクマ数であったり、ブロガーとしての地位であったりと、それは人それぞれでしょうが、とにかく今の自分には「穴」が空いていると思っている。
その穴を埋めるために、アクセスアップ法なりブログノウハウが必要なのだと。
僕にも全く人のことが言えない状態だったんですが、ブログを書く前に小池さんの言う「苦」の状態になっている場合というのが少なくないと思うんですよね。
「もっと見てほしい」という欲求がまずあって、これが叶えられなければ苦しい。
叶えてもさらに欲求が膨れ上がって、また苦しくなる。
アクセスが増えたりブクマ数が多くなって一時的に「苦」が埋まっても、やがてまた「苦」が生まれてしまう。じゃあどうすればいいというのか。
ブログの価値=自分の価値と考えない
これを解消するには、まず「苦」を動機としてブログを書くのをやめるということが大事なのかな、と思っています。
ブログのPV数やブクマ数などが少なくても、そのことと自分の価値を結び付けない。
今の自分には価値がないと考え、その穴をブログで埋めようとするととにかくウケないとダメということになり、ブログ運営が苦しくなってしまう。
なら、最初からブログがウケようがウケまいがこの自分には価値があるのだ、ということにしてしまえばいい。
それならブログを書くのはただの趣味になり、結果に一喜一憂しなくてもよくなる。
もっと言えば、PV数=ブログの価値ですらない、とも思っています。大して注目されていなくても面白いブログなんていくらでもあるわけですし。
創作もブログもよく似ている
僕はアドラーを批判したりもしているし、承認欲求というものは基本肯定する立場なんですが、やっぱり出発点が「欠けているものをネットで埋めたい」だと色々とまずいんでしょうね。
これは創作でも言えることなんですが、人から評価されたいという欲求があること、それ自体は自然なことです。そういう気持ちが作品のクオリティを上げることにもつながるし、読み手の視線を考えることも大事ではある。
でも、やっぱり「作品が評価されない=自分には価値がない」だと、創作自体が苦しくなってしまうのです。創作で壊れる人には、多分こう思っている人が多い。
作品の評価で自分自身の価値が変動してしまうから、とにかく評価されないと辛いわけです。
だから評価されている他者を見て苦しくなったり、ときに攻撃する人まで出てくる。
自分の価値を増やせないと絶望した人が次にすることは、評価されている人の価値を減らして自分の位置まで引きずり下ろすことだから。
僕自身、1年前に小説を書き始めた頃は誰にも読んでもらえなかったし、評価もされてなかったんですが、それでも書き続けたのは原初的な衝動と言うか、混じり気のない創作欲求に突き動かされていたからだと思います。
人の目なんて考えていなかったし、とにかくストーリーを作ること自体が楽しかった。それなのにいつのまにか評価されている人達と比べる視点が生まれ、自分が本当に無でしかないように思えてくることもありました。
そこからもう一度立ち上がれたのは、結局書きたいことを書くという、シンプルな創作の原点に立ち返ることができたからだと思います。
もちろん評価は得られた方がいいし、そこはごまかしてはいけない。
しかし、しょせん他人の評価なんてコントロールできるものではないのだから、結局は自分のやりたいことを納得が行くまでやるしかないのです。
「苦」が快楽に変わるしくみ
しかし考えてみると、何らかの「苦」を人の中に植え付けることで世の中は回っているんじゃないか、と思わされることが多いものです。
そして、この「苦」を埋めることがある種の快感を伴う。
小池さんは「苦」を埋めることが快楽に変わってしまう仕組みについて、こう説明しています。
最大の問題は、こうです。最初にドキドキ不安を感じて書いた「苦」が10ポイントなら、人に見てもらえたときに10ポイントの「苦」が消える分、10ポイントの快楽を錯覚します。すると心は無意識裡に『「苦」を感じたおかげで快楽を味わえたのだから、不安や苦労の「苦」は良いものだ。もっと苦しめばもっと快楽が味わえるのなら、もっと苦しもう』と洗脳されてしまうのです。
したがって、誰も望まないのに、自分から進んで苦=ストレスを増やしてしまうのです。30ポイントの「苦」で、良い文章が書けるかどうか不安になれば、その苦が30ポイント消えたとき、心が「30ポイントも快楽を味わえたッ」という幻を作り出すのですから。
こうして苦を自ら雪だるま式に増やした挙句、やがて「いつも良いコンテンツを更新し続けて皆に評価されねばならない」というプレッシャーに耐えきれなくなると、投げ出してしまうのも当然でしょう。
これはブログに関する話ですが、極限すれば世の中全体がこんな感じだと思います。
結局資本主義とは「貴方にはこれが足りない」と思わせて、その「苦」を埋めるものを売りつけることで成り立っているのではないか。
貴方には年収も、資格も、流行りの服もコミュニケーション能力もパートナーも足りない。あらゆるメディアが直接間接にそういうメッセージを送ってきます。
そうやってまず「苦」を植え付けておいて、これがあれば苦しくなくなりますよ、とささやきかけ、「苦」をなくしてくれる商品やサービスを提供する。経済のかなりの部分がこれで回っているような気もします。
断捨離とかミニマリズムというのも、結局これに対する反動なんでしょうね。
気分を上げ下げするゲームに疲れたのでいい加減このゲームの外に出たい、と思う人が多くなり、人々にシンプルな生活を求めさせているのだと思います。
本書でも執着を断ち切るために余計なものを捨てることが推奨されていますが、断捨離が仏教の見地から裏付けられるのは面白いものだと思います。
我々のような凡人が煩悩から完全に開放されることはあり得ないし、修行僧のような生き方はできないけれど、自分の中の欠乏感を増やさないように工夫をすることは大事なことかもしれません。
そのためのヒントが本書には詰まっています。おすすめの一冊です。