明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

書店で仏教の本を見かけると、時々怖くなる

このブログでも過去に何度か小池龍之介師の書籍は取り上げているし、やはり仏教というのは古くから存在するものなのでその中には心を落ち着かせるヒントや欲求をコントロールする上で優れたノウハウが存在するということ、それ自体は全く否定できないものではある、のですが。

 

saavedra.hatenablog.com

最近は割と小さな書店や、スーパーの書籍コーナーの一角でもこうした仏教の本が置いてあるのを見かけます。こうした本が置いてあるのは大抵自己啓発書のコーナーですが、そうした書物の多くは「願望を叶える」「目標を達成する」という方向性のものであるのに対し、仏教の本というのはそもそもそうした願望自体が虚しいものであると説いたり、全否定はしないまでもそうした煩悩に振り回されないことを説いたりします。これは、方向性としては「夢を叶える」系の本とは真っ向から対立するものです。

 

そして、最近こういう仏教の本が、本来欲求を叶えるノウハウを説くものの多い自己啓発書の中において、ある程度の存在感を持ってきているように思えます。上記の『考えない練習』は累計30万部以上売れたそうです。もっとも定量的に比較してみたわけでもないので、以前に比べて仏教の本が売れているのかはわかりません。90年台でも週刊誌の人生相談で、僧侶が読者に足るを知ることが大事だと説いていた記憶があります。いつの時代でも、宗教者には悩める人の相談に乗る役割があったでしょうし、それが今でも続いているというだけのことかもしれません。

 

ですが、現代の日本の世相というものを前提に置いて、仏教の本がある程度の存在感を持つというのはどういうことか、ということを考えると、何となく複雑な気持ちになってしまうのです。例えば今が高度成長期であったり、バブル期のように「将来はより豊かになる」という期待が持てた時代であったなら、果たして「足るを知ることが大事」というメッセージは説得力を持ち得たでしょうか。

 

人がある願望を持った時、その人が取るべき行動は願望を叶えるべく行動するか、あるいは願望自体を放棄して生きていくか、でしょう。単純に言えば、仏教が推奨しているのは後者です。究極的には煩悩を捨てることが目的なのだから当然です。修行僧ならばそれもいいでしょう。しかし一般の人もそうした教えに心惹かれるのはどうしてなのか。

 

それは結局のところ、夢が叶えにくい時代だからなのではないか、ということです。いやそんなことはない、素人でもネットで自分をアピールできるんだからむしろ成功しやすいのだという人もいますが、それで成功するのはあくまで一握りの人の話です。日本全体で見れば確実に経済のパイも縮小し、将来に良い期待をすることができない人は増えている。「足るを知る」ことを勧める仏教の本を読むのはそうした現状に対する一つの「適応」の形ではないか、とも思えるのです。

 

 そもそも、今幸せな人は宗教や哲学の本に手を伸ばす必要がありません。仏陀は人生とは苦だと説いているのだから、人生が楽しい人には仏教の本などは必要ないのです。南直哉師が宮崎哲弥さんの番組に出た時にはかなりの反響があったそうですが、南さんは「私が必要とされるのは世相が良くないからです」と番組中で語っています。人生とは苦であるというメッセージが市井の人々にも説得的に聞こえるようになってきている世の中とはどういうものなのか、ということを考えずにはいられません。