グローランサーというRPGをご存知でしょうか。6作目まで発売されているRPGのシリーズなのですが、現在のところ続編が発売される気配はなく、初代の作品がPSPでリメイクされたのが一番新しい作品になってしまっているのですが、僕にとってこのシリーズではグローランサー4が最も思い出深い作品になっています。
グローランサーIV ~Wayfarer of the time~ 通常版
- 出版社/メーカー: アトラス
- 発売日: 2003/12/18
- メディア: Video Game
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それは単にこの作品がシリーズ中でもストーリーが面白いからというのもありますが、実はこの作品が「人の命の重さ」という難しいテーマに正面から取り組んでいるからだと思っています。プレイする上で、これほどに重苦しい気分にさせられたゲームというのも、他にはあまりまりません。
主に表現規制の文脈などで、「アニメや漫画の暴力表現を消費者が真似することはあるのか」ということが議論されることがあります。メディアの表現が受け手に対して即効的に影響するという論は「強力効果論」と言われ、上記の研究のようにおおむね否定される傾向にあります。だから、ゲームを遊んだから子供が真似して暴力的になるというのはおよそナンセンスな話ではある。
しかし、なら「どうせ現実に影響力はないんだから」と開き直って、ゲームの中では暴力も殺人も何でもありにして、インモラルな行為を楽しめるようにすればいいのか。もちろん作品によってはこれも「アリ」なのだとは思います。しかし、グローランサー4においては、殺人を楽しむようなことは明白に否定されています。
本作において、主人公は傭兵団に所属しています。そこに、冒頭でレムスという少年が加入してきます。新米の傭兵であるレムスに向かって、傭兵団の団長であるヴィクセンはこう言うのです。
「レムス、我々は傭兵だ。人を殺すことに慣れなくてはならない。しかし、慣れすぎてもいけない」
これはレムスに向けて傭兵たる者の心得を説いた台詞ではありますが、同時にプレイヤーに向けた明白なメッセージでもあったと思います。たとえゲームの中であれ、人を殺すことに慣れてはいけないし、ましてやそこで快楽を感じるようであってはならない。制作側がそのようなメッセージを込めて作っていることが、ゲームを進めるとわかってくるのです。
この作品は、ジャンルとしては戦記ファンタジーといった感じの作品です。主人公はストーリーを進めると対立する陣営の国家と戦争することになり、その過程で今まで知り合った大切な人を何人も手にかけることになります。戦争に勝ってもカタルシスなどは全く得られません。成り行き上仕方がないとは言え、プレイヤーは何ともいえない苦い気分を味あわせられることになるのです。
ストーリー上戦う相手の国家が「悪」ではあるのですが、戦争に駆り立てられる末端の兵士には罪はありません。このゲームでは学生が大勢戦争に駆り立てられていて、主人公は彼等とも戦うことになります。学生達は戦いに負ける時、こうした台詞を残して死んでいきます。
「まだ、死にたくない……!」
「魔法を、極めたかった……」
戦争イベントを進めるたびに、延々とこうした台詞を聞かされることになるのです。ここには「たとえゲーム中でも、人を殺すことで快感を得てはならない」という、開発側の強い姿勢が読み取れます。この演出が繰り返されるうちに本当に戦うのが嫌になってきて、「いつまでこんなことを続ければいいんだ……」と厭戦感情が極限まで高まったところでようやく戦争が終結する流れになっています。この一連の流れが実に見事。
RPGの中でも倒した敵がどうなっているのか曖昧なものは結構あって、ドラクエの場合は「やっつけた」という表現になっています。モンスターが起き上がって仲間になったりするということは殺してはいないということなんでしょうが、本作においては明白に敵を殺しているのです。ただ戦闘不能にしているのではありません。そこを誤魔化してはいけない、ということが、末端の兵士達の最期の台詞にも現れています。
あまりゲームに縁のない人から見ると、「ゲームは死んでもリセットできるんだから、人の命を軽く見るようになる」と思えてしまうのも、ある意味仕方のないことかもしれません。しかし本作のような作品もまた存在しているということも、 できれば心の隅に留めておいて欲しいのです。