何日か前の話なのですが、趣味で書いていた小説に初めてファンアートというものを頂きました。大変美麗なイラストを描かれる方なのでかなり驚いているのですが、このことだけでも今まで素人なりに書いてきて良かったかな、という気分です。
僕にとってはこれはかなり予想外の出来事なので、当初の目標をかなり上回る所まで来てしまった感があるのですが、客観的に見れば小説自体は別に大して評価されていません。
もともと目標を「周囲の数人の人間に褒められる」程度の所に置いているので、それ以上は得られれば御の字なのです。志が低いと言われればそれまでですが、もともとその程度の人間だと思っているので。
と、かように僕自身はスケールの小さい人間ではあるのですが、その分だけ幸福感も得られやすいようです。しかし、志の高い人というのは色々と大変なようです。
以前聞いた話なんですが、ある投稿サイトの有名作家で書籍化まで決まっている方が、他の有名作家への嫉妬に苦しんでいるんだそうです。僕などより遥かに評価もレビューももらっている人が、それでもそんな自分に満足できない。自己評価が高いと、それに客観的評価が追いつかないと精神的にきついんでしょうね。
小説を商業出版できるところまでこぎつけるなんて、僕から見れば圧倒的な勝ち組です。それでも、満足できない人はできない。その人から見れば視界にすら入らないような位置にいる僕が自分の状況にかなり満足できているにもかかわらず。
つまるところ、幸せかどうかなんていうことは、当人の置かれている状況で一義的に決まるものではないということでしょうね。
いや、ブラックな労働環境で働かされていたり、毒親のもとで育ったりするのは間違いなく不幸だとは思いますが、創作物の評価というのはそうした環境に比べたらもっと曖昧なもので、評価は変わらなくても当人の価値観次第でかなり見えてくる風景が違ってくる。そういう状況もあり得るということです。
極端な話、「俺は勝ち組だ」と思いたければ、自分で勝手に超えやすいハードルを決めて、そこを超えればいいのだと思います。ハードルはいくら下げてもいいし、客観的に全く大したことのない目標を定めても構わない。いっそのことハードル自体をなくして、「生きてるだけで丸儲け」くらいまで持っていってもいいのかもしれない。
ただ、ここで問題なのは、人は自分の心にだけは絶対に嘘はつけないということです。生きてるだけで合格、と言うのは簡単。でも本当に心からそう思えないといけない。ということになると、これはかえって高いハードルであることに気づきます。勝利条件は勝手に決めていいけれど、その条件は心から納得できるものでないといけない。ただ生きてるだけで自分を肯定するなんて悟りにも近い境地だし、そんなのはとても無理。
僕が『ピンポン』の台詞で一番好きなのが、スマイルに負けた無名の選手の「飽きっぽい俺にゃよく続いたよ、根暗にこつこつ3年間。海、行くか…それも悪くねえ…」なんですが、勝負の世界では残念ながら誰もがペコやスマイルにはなれない。ドラゴンが言うとおり「才能とは求めるものにのみ与えられるものではない」からです。
しかし上記の彼の台詞、自分なりに納得の行っている人間の台詞ではないかと思います。試合の上での勝者にはなれなくても、三年間卓球を続けられたのならまあ上出来だ、という彼なりの割り切りがそこにはある。こういう締めくくり方なら、才能の有無を問わず誰にでもできます。
他者からの評価なんて望んでも得られるとは限らないし、努力したから結果がついてくるとも限らない。ただ3年後くらいに、「根暗にこつこつ3年文章書いたよ。海、行くか」と静かに言えるくらいな心境になっていられれば、それでいいような気もします。その時は缶コーヒーでも片手に冬の寒空と乾杯したい。