「保育園落ちた日本死ね」が今年の流行語大賞に選ばれたことが議論を呼んでいる。
周囲を見渡しても、これは流行語にふさわしくないという人は多い。
「死ね」なんて汚い言葉を流行語に選ぶべきではないとか、そもそもこんな言葉流行っていないだろうとか。
一方、擁護する人も少なくない。「死ね」という表現自体が良いとは言わないが、そこまで追い込まれている人の気持ちを考えろ、それだけ待機児童の問題は深刻なのだと。
個人的に待機児童の問題にあまり関心はないが、「こういう言葉を使わなければいけないほど追い詰められているのだ」という人を批判する気はない。
ただ、この言葉が本当に止むに止まれぬ心情から発せられた魂の叫びなのだろうか?と言うと疑問もある。
怒っているのは本当なのだろうが、実はこの「日本死ね」という言葉は、ネットで注目を集めるためにはどうすればいいか考え抜いた上で選ばれた表現のように思えるからだ。
ウェブは「強い言葉で人の感情を殴りつける」のが勝負
NAVARの真田丸のまとめに、こういうものがある。
はっきり言って、このまとめには大した中身はない。
そもそもキュレーションサイトにはあまり中味のないものが多いのだが、このまとめはどうでもいいツイートが大部分で、実際の真田信繁の容姿がどうだったかに触れている部分はほんの少ししかない。
だが、こういうまとめでも、「真田信繁は歯抜けのおじいちゃんだった」というタイトルの強さだけで20万PV近くを稼いでいる。
ウェブというのはこういう世界だ。ウェブは誰でも書けるから、毎日大量の文章が供給されてくる。その中で頭一つ抜けるには、まずこういう「強い言葉」をタイトルに持ってこなければいけない。
伝えたい事があるなら、まず人を釣らなくてはいけないのだ。
僕が好きで呼んでいるブログは、面白いのにあまり人気ブログにはなっていないものが多い。
それは、その人達がこういう「強い言葉」で人の耳目を集めようとしたり、人を煽ったりするようなことをしないからだ。
良質なコンテンツを提供しているが、門構えがネット向きになっていないのであまり注目されていない、そんな地味なブログを僕は好んで読んでいる。
そういう人達もこうした「強い言葉」を使ってブログをカスタマイズすればもっと読まれるようになるのかもしれないが、そういう色気を出してくると自分だけが注目していたアイドルが急に売れだしたときのように、何だか複雑な気持ちになってしまいそうだ。読者とは実に身勝手なものだ。
嫌儲とは本当に「嫌儲」なのか
ネットでお金を稼ぐことを全面に出すことを嫌う人は多い。
しかし、本当にお金を稼ぐという行為自体が嫌われているのか?という疑問もある。
良質なコンテンツを提供している人が、それに相応しい収入を得ることまで全否定する人は、そう多くないはずだ。
ただ、ウェブで収入を得ようとする人の一部に、過激な言動で人の注目を浴びようとしたり(1日を50円で売るとか)、人を煽って炎上を狙ったりする人がいるため、そうした振る舞いが嫌われているということではないだろうか。
「保育園落ちた日本死ね」はお金儲けのために書かれた文章ではないが、この言葉を嫌う人は、こうした「強い言葉」を用いて人の耳目を集めようとする行為が炎上ブロガーの姿と重なって見えたのかもしれない。
今後もこの手法は用いられ続ける
良い悪いは別として、タイトルに「日本死ね」という言葉を用いることは、現在のネットに最適化された手法だっただろう。もっと穏やかな言葉で同じことを主張することもできただろうが、その場合、増田のエントリが2000ブクマもされていたかはわからない。
増田のエントリがこれだけ話題になったのは、「日本死ね」という言葉の強さが間違いなく関わっているだろう。
ウェブで短期間で人の注目を集めるには強い言葉で人の感情を殴りつけるのが一番だ、という事例がまた一つ積み上がった。
結局、「保育園落ちた日本死ね」はネット流行語大賞では銅賞に選ばれた。
流行っているとは言い難いかもしれないが、ネットの現状を象徴する言葉としてはこの言葉ほどふさわしいものもない。
これからも、炎上芸人や人を煽り立てるエントリは、絶えることなく供給されてくるだろう。
そうしたものを好まない人間の一人としては、今後もそうした声に耳をふさぎ、良質なコンテンツを探す努力を続けるのみだ。