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「すぐに好意を持ってしまう人」の問題
先日、こういうまとめを読んだ。
コメント欄はオタクがどうこうという話になってしまっているが、これは「他者との距離感が上手く測れない人」の話と言っていいだろう。
相手は普通に接しているだけなのに、それを好意があると勘違いしてしまう人はいる。
勘違いは積極性を産み、その積極性に相手は引く。
普通に接しても好意があると思われてしまうのなら、そう思われないように冷たくするしかない……というわけだ。
そういう対応を取る人に対して、ここでどうこう言う気はない。
その人にはそれが最適解だと思えたからそうしているのだろうし、そういう処世術を使わなくてはいけない場面というのはあるのかもしれない。
この記事においても、一方的な好意を向けられる人の立場に立って、「身勝手な欲求とは女性を傷つけるものなのだ。自分の立場をわきまえず相手に理想の人格を押し付ける男性の身勝手さがどれだけ女性を抑圧しているのかを知るべきだ」とでも書けば、この記事も共感を呼ぶ内容になるのかもしれない。
だがこのブログは自分を着飾るための議論をする場所ではないので、そんなことは書かない。
これから書きたいのは、こういう「ちょっとした優しさを向けられただけで好きになってしまう男性(だけとは限らないが)」のことだ。
一応お断りしておくと、他者への迷惑行為を擁護する気は一切ない。
ストーカー行為等は厳に慎むべきだ。
それは大前提とした上で、「なぜ簡単に惚れてしまう人がいるのか」という問題について考えてみたい。
「異世界ファンタジー」における美少女奴隷の存在
「小説化になろう」の異世界転移や異世界転生の中に「モテ」のパターンとして、現代基準で女性に「普通に」接したら、男尊女卑の社会の中で「すごく優しい男性」「性別に拘らずに実力を認めてくれる男性」としてモテるっていう展開がオタク男性達の気持ちをよく表している気がするんですよね。
— 琵琶さざなみ (@Mickey_Trunk) 2015年3月22日
実は最近、まさにカクヨムでこういった感じの小説を読んだ。
その小説の「異世界」の中には奴隷として虐げられている少女がいて、主人公は現代からやってきた人物であるから彼女に対しても現代人の人権感覚をもって臨む。
あくまで対等な人間として扱い、仲間として接するというわけだ。
すると、その扱いがまさに彼女からすると、極めて稀有な体験となる。
「奴隷」である自分を認めて対等に扱ってくれるなんて、なんて素晴らしい男性だろう、と彼女は考えるのだ。
その異世界には奴隷は奴隷としてこき使う男しかいないので、対等に人間として扱ってくれるだけでもとてつもなく素晴らしい相手に思える。
彼女にとっては特別な体験をさせてくれた相手であるということで、それが惚れる原因になるのである。
あくまで主人公としては「普通」に振る舞っているだけなのに、その普通さこそが奴隷の少女にとっては得難い体験になるとういことだ。
人が人を好きになるのにはいろいろな理由があると思う。
「こうすれば好きになる」などという確実な方程式は存在しない。
ただ、その人にとって「特別な体験」を提供することができれば好きになりやすい、ということは言える。
奴隷少女にとって対等な人間として扱われることが稀有な体験だから主人公に好意を持つように、普通に笑顔を向けたり会話したりするだけで好きになってしまう人の人生には、そういう体験が欠けていたのではないか、と想像できる。
つまり、心が慢性的な飢餓状態にあるため、わずかな施しでもものすごく有難く思えてしまうのだ。
かわいそうな人だから同情しろと言いたいわけではないけれど
そういう背景の事情を考えてしまうので、僕はこういう「すぐに好きになってしまう人」のことをあまり責める気にはなれなかったりする。
繰り返すが、過剰な好意からストーカー行為に及んだり、思いが受け入られなかったからと嫌がらせを行ったりするようなことが非難されるのは当然のことである。
ただ、「普通に会話したり笑顔を向ける」ということすら「特別な体験」と捉える人の人生とはどういうものだったのか、ということを考えてしまうのだ。
普通ならとっくに手に入っていておかしくないはずの承認や愛情が、その人の人生には欠けていたのではないか。
それが環境のせいなのか、自業自得なのかはわからない。
とにかく、その人には基本的な承認が足りていない。
だとすると、そういう人に対して「距離感を急に詰められるのが怖いから冷たくしておいたほうが安全」という対応を取るとなると、その人はますます承認が得にくくなってしまう、ということになる。
承認を得られている人と得られない人の格差は、開く一方なのだ。
そういう人に対して、自分だって何ができるというわけでもない。
愛に飢えた可哀想な人なのだから、慈悲の心をもって受け入れるべきだという気もない。
ただ、人を好きになる閾値が異常に低い人にもそれなりの事情というものがあるのかもしれない、ということを、心の片隅にでも置いておくのも悪くないのではないかと思う。
「たかが笑顔を向けただけで好きになるなんて」とその手の人を笑うのは、普段高級レストランでたらふく食べている人が気まぐれに今日の食事にも事欠く人に菓子パンをおごった上で「こんな安物で喜ぶなんて。これだから貧乏人は」と笑っているようなものかもしれないのだ。
「承認ポイント」を貯める方法
基本的な承認が足りないからうまく人と付き合えないのに、人と付き合えないから余計に承認されない、というのでは精神のデフレスパイラルが加速してしまう。
そういう人が、あまり人を傷つけずに承認ポイントを貯めていく方法というのはあるのだろうか。
あまり安易なことは言えないが、永田カビさんの体験談は、一つのヒントになるかもしれない。
この体験談の中で、永田さんは漫画で認められるようになったことで、自分から人を誘えるようになったと言っている。
「人に好かれたいのなら、まず自分から与えよ」といったアドバイスをする人は多い。
それ自体は別に間違ってはいない。
しかし、他人に与えられるようになるには、まずそれだけの心の余裕が大前提として必要なのだ。
その余裕というのは、結局のところ、他者から肯定されることでしか得られないのではないか、という気がする。
永田さんはレズ風俗に行ってみたり、漫画を書くという行為を通じて、他者から肯定されるという回路を開くことができた。
これは一般的な解決法ではないと思う。
というより、この手の問題に一般的な解などはないのかもしれない。
幼いころに得られたはずの肯定感を大人になってから取り返す、と言うのは実にしんどい作業だ。
その理不尽さについて考えすぎることが、その人の身を滅ぼす原因にすらなるかもしれない。
それでも我が身を削るように自分自身の抱える闇について掘り進めていくので、永田さんの漫画はひりつくような孤独の寒さを感じさせるようになっている。
この漫画を描き続けることは、果たして彼女にとって救済たり得ているだろうか。
それはわからないが、これを読むことで、僕の心のある部分が確実に満たされる。
誰かが抱えている孤独について語ることを、必要としている人も世の中にはいるのだ。
自分は友達もいないし与えられるものなど何もない、と思っている人でも、案外その「何もない」ということ自体が他者の共感を呼び込む価値があるのかもしれない。
そこから自己肯定につながる回路が開けるのなら、持たざる者の独白も悪くない。
ブログというのは、そういう人のための場でもあると思う。