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小説は誰でも書ける。書くだけなら。
まずはタイトルの質問に答えましょう。
書けますよ。
別に小説には決まった書き方なんてないし、何を書いたっていいのだから、書くだけなら誰だって書ける。
好きなことを書いて、これが自作ですと人前に出せばそれでいい。
ただし長編をきちんと完成させられるかどうかというと話は別。
10万字以上の分量があって、曲がりなりにもストーリーとして成り立っていて、日本語も引っかからずに読めるというレベルになるとそれは「誰でも書ける」ということはない。
それは「小説を書くのにだって才能は必要」という話ではないのです。
書籍化されている小説にだって、ストーリーも文章力も水準以下のものだっていくらでもある。
「これなら俺だって書けるわ」と思う人も、それはいるでしょう。
世の中には読書経験が豊富な人間ばかりいるわけではないから、レベルの低い作品でも商品としては成り立つこともある。
小説を書くのに本当に必要な力とは何か?
では、長編を完成させることができる人と、できない人は何が違うのか。
実は小説を書くのに一番必要な能力は、文章力でもアイデアを生み出す力でもプロットを考える力でもありません。
一番必要なのは体力です。
体力と言っても、ここで言うのは何もフルマラソンを完走できるような「体力」のことを言っているのではありません。
村上春樹は本当にそういう意味での体力を身につけるためにランニングを続けているそうですが、もっと必要なのは物事をひたすらに考え続ける「知的体力」とでも言うべきものです。
結局のところ、小説というのは全て文章で構成されていて、頭で考えて書くものなので、長い文章を書き続けるにはひたすらに物事を考え続けられる力が必要なのです。
破綻のないプロットを作るのも、キャラの台詞に整合性を持たせるのも、世界観を構成するのも、全てはこの「知的体力」から生まれます。
村上春樹はこの「知的体力」を支えるには肉体的な体力も大事なのだと考えているから身体を鍛えているのだと思います。
小説というのは知的労働だから、一作書き上げるには傍から見てとても頭が悪い内容に見えても、それなりに労力は使うものです。
「こんなん俺でも書けるわ」程度の内容でも、書き続けられるという時点でその人は凡人から頭一つ抜け出ているのです。
凡庸なことも、毎日続けるのは非凡な人
ダイエットにしたって、1時間ウォーキングするとか、朝食を飲み物だけにするとか、筋トレするとかの行為を1日だけに限定すれば「そんなん俺だってできるわ」ですよ。
でも、それを毎日やり続けられるか?と言われればやはり話は違う。
凡人でも可能なレベルのことであっても、それをやり続けられるということがすでに非凡なんです。
ヒカキンの動画だって、見てて大爆笑できるようなレベルってわけじゃないですよ。
瞬間風速レベルなら、彼より面白い芸を見せられる人はいくらでもいるかもしれない。
でも、あのレベルでコンスタントに動画を作り続けられるかと言われれば、大抵の人には無理でしょう。
動画をアップすれば誰でもユーチューバーにはれるけど、ユーチューバーであり続けることは誰にでもできるわけではない。
ダイエットと同じように、小説にだって誘惑は多いですよ。
まず、貴方がまだアマチュアだと仮定して、小説を書かなくたって別に誰も困りはしない。
小説を書く時間はもっと楽しいことにも使える。ネットなりゲームなりどこかに遊びに行くなり。
しかも、モチベーションってだいたい書き始めた時点がマックスで、後はだんだん落ちていく一方です。
ウェブ小説ならうまい具合にランキングに乗るなりしてポイントがたくさんついたらモチベーションが上がるだろうけど、当然そうならないことも多い。
書いても書いても何の反応もないと、もう一人の自分が執筆の邪魔をしてきますよ。
「こんなもの書いて何になるの?」
「オレって何の才能もないんじゃないか?」
「こんなことする時間をもっとマシなことに使えるだろ」
これらの「もう一人の自分の声」に打ち勝つことができた人だけが、作品を完成させることができます。
完成させたところで誰も褒めてくれないかもしれないし、感想欄で批判されて心が折れるかもしれない。
それでも自分で自分を励まし、奮い立たせるメンタルの強さと知的体力を持つ人だけが次のステージに進むことができます。
多少才能があったところで、とにかく書き続ける体力がなければ何の役にも立ちません。
良いものを書いても注目されるとは限らないからです。
当たるまで書き続ける気力体力がある人だけしか日の目を見ることはありません。
「こんなの俺だって書ける」は、立派な執筆の動機
結局この手のことって、傍から見た「できそう」と実際に「できる」ことの間に一万パーセクの距離があるんです。
「こんな文章、俺だって書ける」と言っている人は、実際にそうやって腐している小説よりもいい文章を書けるかもしれないし、才能だってあるかもしれない。
でも問題は、結局実際にやるかやらないか、なんです。
今読んでいるその駄文を書いている作者は、少なくとも最後までその作品を書ききった。
文句を言っている人は書いていないからこそ、文句を言う側にいる。
読んだ人には作品に文句を言う権利があるけれど、それでも本を一冊上梓するというのは、やはり、それなりのことだと思う。
田中芳樹は著書の中で、「小説を書くのには二つの動機がある。ひとつは良い小説を読んでこういうものを自分も書きたいというもの。もう一つはひどい小説を読んでこれなら自分が書いたほうがマシだというものだ」と語っています。
「こんなん俺だって書けるわ」だって、小説を始める立派な動機になるのです。
しかし、もし本当に「俺だって書ける」と思っている人は、すでに書き始めているでしょう。
それをしない人はもともとあまりやる気もないのだろうし、その時点で実は「誰でも書ける」わけではないということの証明になってしまいます。
やる気が出ない時点でその人はすでに「書けない」側の人間だから。
やればできると言われても、実際にやらないことが問題なのだから、潜在的に能力はありますと言われてもどうしようもない。
才能というのは、「この自分を世に出したい」というところまで含めた能力のことだと僕は思っています。
周囲の字書きの方達を見ていても、ほぼ全員が「進捗できる人は偉い」と言っています。
いくら優れた能力が眠っていても、実際に書かない限りその能力が表に現れることはないし、出力された結果がダメであっても、質を高めるのはまず量をこなさなくてはいけないことも皆知っています。
だから結局、いちばん大事なのは進捗できる体力なんです。
潜在能力があるかどうかなんてことは二の次三の次に過ぎない。
一部の天才を除いて、生まれ持った能力なんてそんなに差があるわけじゃないですから。
もちろん、ネット小説なんて書かなくても何の問題もありません。
別に書き上げたからといって世間的に褒められるようなものでもないし、それこそ元増田のように「こんなん誰でも書けるわ」と言われるくらいが関の山かもしれない。
しかしだからこそ、最後まで作品を完成させる力は貴重なものだと感じます。
作品を書くということは、「批評する側」から「批評される側」になるということであり、今まで自分が人の作品に対して言ってきたことを言われる立場になるということです。
それ自体は作者の宿命であり、どうすることもできません。
しかし、そのようなリスクのある場に身を晒す、という時点で、すでにその人はその他大勢から頭一歩抜け出ているし、ステージに上る勇気はあるということです。
その結果生まれたものが駄作としか言いようのないものであっても、多くの人はまず作品を完成させるところまでたどり着けない。
「こんなの誰でも書けるよね」と言われるくらいに衆目を集める事自体が実は得難いことで、そう言われる作品の影に、何十倍何百倍もの「何も言ってもらえない作品」があるのです。
わざわざ増田にエントリを書かせるくらいに影響力のあるウェブ小説がこの世にあるとするなら、それはやはり「誰にでも書けるものではない」ということです。