明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

個性的であれという呪縛が人を苦しめる──南直哉『なぜこんなに生きにくいのか』

 

なぜこんなに生きにくいのか (新潮文庫)

なぜこんなに生きにくいのか (新潮文庫)

 

 

ある時期から、どうもブログの世界が居心地が悪い、と感じるようになった。

おそらくはてなブログの中だけの話なのだと思うが、あちこちでどうすればたくさんアクセスを集め、それを稼ぎに繋げられるか、ということが語られるようになってきたからだ。

自意識を発露する場所、リアルでは言えない本音を吐露する場所としてのブログのありようは影を潜め、この世界も市場化の波に洗われるようになった。

 

そこでよく聞かれるようになったのは、「読者に価値を提供せよ」という言説だ。

ただの日常雑記なんて誰も興味持ちません、そんなことより読者が求めていることを書くべきなのです、といったブログ指南をする人があちこちに現れ、収益報告やPV報告を行うことが日常化し、ブログの価値はあたかも数字で表せるかのような風潮が一部で生まれたような印象がある。

 

我々は資本主義社会に生きている以上、自分自身を労働力として売らないと生きていけない。それは仕方のないことだ。しかし、ブログというのはあくまで私的な領域のもので、そうした市場的な価値観とは別であっていいのではないかと思っていたのだが、この世界もじわじわと商品価値で判断される世界になりつつあるのではないか、と少し前までは思っていた記憶がある。

 

もうはてなブログをほとんど読まなくなってしまったので、今はそうした価値観から距離を取ることができたとは思っている。今でもはてなブログでお金の話をする人が多いのかはわからない。ただ、ブログであれその人自身であれ、市場価値だけで価値を判断されてしまったら息苦しいのではないかという感覚は今でも持っている。そのあたりのことを、南直哉氏も以前テレビで語っていた。

 

 

 世間は人に個性的であれと言うが、そこで言う個性というのは結局市場で評価されるようなものではないのか、という問いを彼はここで発している。

 人間という全体性の中のごく一部である「人材」(=能力)という部分だけがクローズアップされ、そればかりが求められていることが生きづらさの原因ではないのか、と南禅師は説く。市場化という傾向が単にビジネスの世界の枠を超えて、人間全体を覆いつつあるのではないかとこの動画では説明されているが、個人ブログですらPVなどの数字で価値を測られるような一部の風潮も、この流れの延長線上にあるものではないかと思う。

 

すべてが売れるかどうかという市場価値で判断される世界は生きにくい。

すると今度はアンチテーゼとして、ありのままの自分でいいのだ、といったメッセージが強調されることになる。みんなちがってみんないい。そんなメッセージの一つの象徴として現れたのが『世界に一つだけの花』だろう。

 

この歌を聴いたとき、南氏は「とたんに泣けた」と本書で告白している。

あなたはオンリーワンだと言って欲しい人がそんなに多いのかと思えた、ということだ。

オンリーワンだと言われたいということは、実際にはそんなことを言ってくれる人が周りにいないということを意味している。こんな悲しいことがあるだろうか、と彼は思ったのだ。

だいたい、「特別な」という以上は、それを特別だと思う、花以外の人がいないと「オンリーワン」に意味があるということにはなりません。花たちがオンリーワンだ、特別だなどと思うわけではない。オンリーワンだというのは、まわりの誰かが評価して、決めることなのです。となると、確かに「私」は世界で一人だけですが、一人だけの人間が価値があるかどうかは、一人だけであることの中からは出てきません。

 まさにその通りで、一人ひとりはたしかに特別なのだが、そのことと自分が特別であることを実感できるかどうかは全く別問題だ。自分がオンリーワンだといえるためには、そう感じさせてくれる他者の存在がどうしても必要になる。そして、他者から受け入れられるには、受け入れられるような個性を持つことが必要だ。皆がオンリーワンとは言いつつも、認められるような個性は実はかなり限られてくる。

 

お金儲けを全面に出しているようなブログに対して、そんなことよりも貴方らしさを大事にして欲しい、といった感じのブログ論を以前何度か見かけたことがある。

一見良心的な意見だが、本書で展開されている主張を踏まえればこの「オンリーワンであれ」という激励もまたしんどいものであるということがわかってくる。ただの日常雑記だってその人にしか書けないオンリーワンの文章なのにあまり読まれないし、個性で勝負しようと思ったら卓越した特技なり文章芸なりが必要になるのだ。

 

それらは極めればお金にもなりうるものだし、結局市場で売れるような個性が必要なんじゃないか、という話になってくる。オンリーワンであることを目指しても、結局市場化の波から逃れられない。読者に価値を提供すれば貴方の記事は読まれますよ、というのは取引だ。評価されるのは市場で取引対象になるような個性なのだということになれば、やはりしんどさはなくならない。

 

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)

 

 

結局、「取引でしか承認が得られない」という感覚が内部にある限り、どこにいても生きにくさはなくならないのだと思う。

南氏は『恐山』の中で、「取引でない人間関係をどれだけ作れるかが重要だ」ということを言っている。もし、自分に何があってもこの人は自分を見捨てないでいてくれると信じられるような人がそばにいれば、ブログが読まれない程度のことなんてどうだって良くなるだろう。そんなことと人の価値は関係がないと信じられるからだ。

 

しかし、特に大人になると、そのような関係性を得るのは簡単ではない。

今の自分はこのブログが読まれなくてもあまり問題ではなくなったが、それは他に居場所もやれることもできたためにここが重要ではなくなったからである。他者からの評価はその人の価値を決定しない、というのは全くその通りなのだが、そう思えるためにはどこかに自分を支える他者や居場所の存在が必要だ。承認を必要としなくなるには承認が必要だ、というのはなんだかパラドックスのような話だ。

 

 本書には、生きにくさを解消する方法は書かれていない。

それは結局、生きるとは苦しいものだという仏教の世界観で書かれているからだ。

しかしそういう価値観がフィットする人には読後に何かが残るだろうし、フィットしない人はおそらく最初から手に取らない。これはそういう本だ。