学級日誌に書き込まれた「オタク叩き」
「オタクは危険人物だ。このクラスにも一人、オタクと呼ぶべき人間がいる」
これが、あの宮崎勤事件が起きて間もないころ、私のクラスの学級日誌にある男子の書いた言葉です。
ここでオタクだと言われていたのは私のことではありません。
いえ、名指しされてはいないのでその可能性もなくはありませんが、その男子がいつもあいつはどこかおかしい、とバカにしていたのは別の男子だったので、彼のことを言っていた可能性のほうが高かったと思います。
つまり、この事件はその程度には私にとって「他人事」だったのですが、その立場から見て語れることもあると思うので、当時の一高校生からみえた風景について、ここに書き記しておこうと思います。
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ゲーマーはいじめられることはなかった
これは私の高校の話なので、一般論にはできないとは思います。
ただ少なくとも、私の通っていた高校では、ゲームが趣味の生徒がいじめられたり、バカにされるということはありませんでした。
オタクの趣味といえばアニメ漫画ゲームですが、この当時は多くの生徒がゲームを趣味にしていたこともあって、あまりオタク趣味の範疇とは(私のまわりでは)思われていませんでした。
ですが、ゲーム趣味が叩かれた地方も存在した可能性もあります。
そのことが推測できるのは、1989年に発売された「サーク」というアクションRPGの攻略本の内容にあります。
この攻略本には、コラムの内容として「僕たちは、たとえゲームの中のキャラクターであっても、無念の死を迎えれば痛みを感じる。架空の世界の人物であっても、現実の人間と同じようにその死を悼むことができるのだ。その感覚を、どうかこれからも大切にして欲しい」といったことが書かれていた記憶があります。
ゲームの攻略本に、こうしたライターの個人的主張が書かれるのはかなり珍しいことです。
これは、宮崎勤事件のあおりを食らって白眼視されたゲーマーへのある種の激励だった可能性もあります。
このことについては、以前記事を書きました。
オタクだからバカにされていた人は確かに存在する
今でも時々、「あの当時いじめられていたのは、もともとイジメられるようなタイプの奴だけ。オタクではなく性格が暗かったのが原因」だなどという言説を耳にします。
ですが、私の経験上、これは間違いであると思います。
冒頭に書いた日誌で陰口を叩かれていた彼は陸上部に所属していて、抜群に足が早く、性格も明るく友達も多いタイプでした。キャラクターだけ見れば、バカにされるような要素などどこにもなかったのです。
私のクラスでは、オタク呼ばわりされて陰口を叩かれていた男子はもう一人いて、彼は演劇部でしたがやはり性格は明るく、むしろクラスでは人気者のタイプでした。
しかし、陸上部の彼は少女漫画、演劇部の彼はアイドルという趣味を持っていたというただそれだけのことで、こうして陰口を叩かれるような立場になってしまったのです。
この事実からも、「オタクがバカにされているんじゃない、お前がバカにされていたのだ」ははっきり間違いだといえます。
彼等はいずれも、深刻ないじめを受けたというわけではありません。
ですが、宮崎勤以前ならこんな陰口を叩かれることはあり得なかったであろう人達までこういうことを言われてしまうのだから、彼等がもともといじめられやすい性格だったならどんな目に遭っていたのだろうか?と今でも思ったりします。
オタクバッシングは「ネクラ人間」イジメの延長
私は自分がそういう陰口を言われる立場ではなく、たとえ言われていたとしても気づくこともなかったので、この事件についてはある意味「他人事」ととらえているところはありました。
ですが、まったく自分には無関係のことだと思っていたわけでもありません。
というのは、当時の私はこのオタクバッシングを「ネクラ人間いじめ」の延長線上にあるものと考えていたからです。
80年台の日本には、ネクラ/ネアカという性格の二分法があって、ネクラ側に分類されるような人はなんとなく馬鹿にされがちな風潮がありました。
タモリの作り出したこの言葉は、本当はネクラをバカにするための言葉ではなかったようですが、自分を「ネクラ」側の人間だと思っていた私は、オタクバッシングはこのネクラ蔑視のようなものと地続きであるように感じていて、いつこっちに矛先が向かってきてもおかしくないな、とも思っていました。
この当時、タイトルは忘れましたがコミケの実態について書かれたムック本を読んだことがあります。
強烈なオタクバッシングが書かれていたわけではなく、中には面白い同人誌もあると一定の評価はされていましたが、全体としてはオタクの閉鎖性みたいなものに対して批判的なトーンで書かれていました。そうした批判が、私にはある種のネクラ叩きのようにも思えました。
個人的には「学研のひみつシリーズ」のパロディとして女体のひみつという同人誌が作られていて、欄外のまめちしきまでちゃんと作られていたという記事にはかなり笑ったのですが、こうして半ば見世物のように取り上げられていた側からすれば笑い事ではなかったかもしれません。
さっき「明るくてもオタクだとバカにされた人はいるといったのに、オタク叩きはネクラ叩きだって、それは矛盾してるんじゃないか」と思われるかもしれません。
これについては、オタク文化が「陰」に属するものだということになってしまったので、もともと明るい人でもそのような趣味を持っていることである種の負の烙印を背負わされてしまったとういことではないか、と思っています。
彼等がもともと暗い人間だったなら、もっと色々言われていたことでしょう。
「オタク差別」は本当になくなったのか?
dragonerさんの記事を見る限り、「ここに10万人の宮崎勤がいる」と言ったキャスターの実在は今でも確認できないようです。ですが、こういうことを言う人がいたと思われても不思議はない時代というものは、確かにありました。
この頃に比べれば、今では芸能人でも普通にアニメ好きを公言したりする現代とは、本当に隔世の感があります。そうした表向きの現象だけを見れば、確かに「オタク差別」はなくなったと言ってもいいかもしれません。
ですが、それはオタク趣味もある程度世間一般に浸透し、「陰」から「陽」の側に来たから叩かれなくなった、ということのように私には思えます。
オタク趣味の中でも「陰」に位置すると見られているものは、今でも叩かれがちではないかと思います。
オタク同士の中ですら、そうしたバッシングは発生します。例えば特撮ファンが美少女ゲームのファンを「支配欲の塊」だと言ってしまうように。
マジョリティがマイノリティを、「陽」の側にいると自認する人が「陰」の側の人を抑圧するという構図自体は、この2017年の日本においてもなんら変わりのないもののように私には思えます。
それこそ「陰キャ」なんて言葉にも象徴されるように、かつてオタクの特徴と見られていたコミュニケーションの苦手な人、友達の少ない人というのは今でも見下されがちな風潮もあります。
現象としての「オタク差別」はなくなっても、それはオタクが叩かれるターンが終了したに過ぎず、今度はまた別の誰かがそういう役を割り振られているのではないか──いささか悲観的ですが、私にはそう思えてならないのです。