明晰夢工房

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ニシンとタラが大航海時代を支え、世界史を作った。『魚で始まる世界史 ニシンとタラとヨーロッパ』

 

魚で始まる世界史: ニシンとタラとヨーロッパ (平凡社新書)

魚で始まる世界史: ニシンとタラとヨーロッパ (平凡社新書)

 

 

司馬遼太郎塩野七生の作品を好む人が多いことからもわかるように、多くの人は優れた資質を持つ英雄こそが歴史を動かすと思っている。それもひとつの真実だ。しかし、たとえば『銃・病原菌・鉄』で書かれている通り、資源や環境が歴史を作る要因になっているという観点から書かれた書物も多く存在している。歴史をマクロに見るなら、この観点は外せない。

 

歴史を作るキーアイテムとなったモノは数多く存在するが、本書『魚で始まる世界史 ニシンとタラとヨーロッパ』では、その中でも特にニシンとタラに着目したユニークな一冊だ。日本人にもなじみ深いこの魚の群れが、ヴァイキングの大移動やハンザ同盟の興隆、大航海時代の幕開けからアメリカ植民地の発展にいたるまで、深く関わっているということが本書を読むとよく理解できる。

 

なんとなくヨーロッパ人といえば肉食、というイメージがある。しかし魚の需要も馬鹿にはできない。というのは、キリスト教には「フィッシュ・デイ」が存在しているからだ。キリスト教では断食するべき日が決められていて、これが一年の半分ほどを占めているのだが、実はこの日は魚を食べることが許されていた。

キリスト教の断食においては、肉は肉欲と結び付けられるため徹底的に避けるべきものだった。しかしガレノスの体液理論では「熱い」肉とは反対に水の中に棲み「冷たい」魚は肉欲を抑えるためにふさわしい食物と考えられていた。断食の目的は肉欲を抑えることだったため、魚なら食べてもいいというわけである。こうした事情もあり、魚もまたヨーロッパの食卓には欠かせない食べ物だった。

 

このフィッシュ・デイにおいて巨大な需要が生じたのがニシンの塩漬けだった。本書ではヨーロッパ史を魚が動かした例として、まずヴァイキングとニシン漁との関係が語られる。リンディスファーン修道院襲撃に始まるヴァイキングのイギリス襲撃の背景には、実はニシンの回遊コースの変化があったというのだ。魚を主な食料としていたヴァイキングにとり、ニシンは極めて重要だ。イギリスでヴァイキングが定住した地域も、もともとすでにニシン漁が栄えていた地域らしい。だとすれば、ニシンの群れがスカンジナヴィアからヴァイキングをイギリスに呼び寄せたことになる。

 

 ヴァイキングに代わり、バルト海の覇者として台頭してきたのがハンザ同盟だ。ハンザの中心都市であるリューベックの東にあるリューゲン島の岸にはニシンの大群が押し寄せる。ハンザはこのニシンの加工技術を持っていて、塩漬けニシンは樽に詰められてコグ船で各地に運ばれた。一四世紀までのハンザの繁栄を牽引したのは、積載量に優れたコグ船だった。

 

しかし、ハンザの繁栄を支えていたニシンの群れは、一六世紀にはバルト海から北海に移動してしまう。この北海でニシン漁を行ったのが次の海洋の覇者、オランダだ。沿岸部で押し寄せてくるニシンを獲っていたハンザとは違い、オランダは大型のバス船を駆り積極的に魚群を追いかけ、スコットランドイングランドのすぐそばを掠めるように漁を続ける。この「大漁業」によって栄えたアムステルダムは、「ニシンの骨の上に建つ街」と呼ばれることになった。

このオランダの「大漁業」を対岸から指をくわえて眺めているだけだったイギリスがオランダを圧倒するには、オリバー・クロムウェルの登場を待たなくてはならない。後にピューリタン革命で勝利したクロムウェルは航海法を成立させてオランダの中継貿易に大打撃を与えた。オランダはスペインからようやく独立を勝ち取ったわずか4年後に、イギリスに繁栄の座を明け渡した。

 

そして、アメリカ植民地の発展にもまた魚が関わっている。まず大前提として、大航海時代が始まらなければアメリカにヨーロッパ人がたどり着くこともなかったわけだが、この大航海時代を支えていたのもまた魚だった。この時代の航海を支えていた食料は、保存性の高いストックフィッシュ(天日干しにしたタラ)である。長ければ五年は持つストックフィッシュは遠洋航海には欠かせない。

タラに支えられ海を渡ったヨーロッパ人の渡ったアメリカでも、魚が植民地の発展の鍵を握った。ニューイングランドでは冬季にもタラ漁が可能だったため、夏に農業や林業を行い、冬にはタラ漁に出ることができた。やがて西インド諸島で砂糖のプランテーションが確立すると、重労働を強いられる奴隷のために塩辛い食物が必要になり、タラの干物がこの需要を満たすことになる。後にイギリスに産業革命を起こす利潤を蓄えた三角貿易を支えたのも、また魚だった。

 

こうして見ていくと、ニシンとタラという地味な魚がどれだけ深く世界史に関わっているかがわかってくる。シェイクスピア研究者の著者は『テンペスト』のなかに「お前を干し鱈にしてやるからな」という台詞が出てきたことに着目し、それが本書を執筆するきっかけになったと書いているが、歴史の覗き窓とも言える文学の一節から発想を広げ、ここまでダイナミックな世界史を描いてみせる著者の手腕には感嘆する。人物を中心とした既存の歴史書に飽き足らない読者にはぜひおすすめしたい好著だ。