pixivコミックで連載されていた永田カビさんの『一人交換日記』が11月に最終回を迎えていた。
この最終回は一応ハッピーエンド……なのかな。
読む人によっていろいろと思うところがあるだろうけど、家族との関係が良くなったのならそれはやはり祝福すべきことなのだろうと思う。
「愛がこの病気の薬なら、きっと良くなる」という最後の言葉も、永田さんの心境が好転している証拠だと受け止めたい。
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『寂しすぎてレズ風俗に生きましたレポ』については、以前こういう感想を書いた。理由はよくわからないけれど、永田さんには自己肯定力のようなものがかなり不足していて、「感情貯金」が足りないために生きづらいのだ、と自分は感じた。
そんな永田さんもレズ風俗に言ったり、漫画が世間に受け入れられることでしだいに「感情貯金」が溜まってくる。とくに漫画が認められたことは決定的だったらしく、その体験は「甘い蜜が大量に口に注ぎ込まれた」ように感じられたと永田さんは書いていた。
ここで終わっていれば、ハッピーエンドで全て良かったことになる。しかし人の人生はどこまでも続いていくし、永田さんの人生にも「その後」がある。人並みの自己肯定感をようやく得られた永田さんがその後どうなったのか?を描いているのが、『一人交換日記』だ。これは『寂しすぎてレズ風俗に生きましたレポ』の続編と言ってもいい。
この漫画は『レズ風俗』に比べると明確な主張があるわけではなく、どちらかというと「私小説のマンガ版」みたいなものだ。家族との葛藤や孤独の辛さの表現などはあいかわらず巧みで、呼んでいるこちら側もひりつくような痛みを味わう。共感できるところもできないところもあるが、「生き辛さ」を描いた作品として、自分の中では『レズ風俗』とともに長く記憶に刻まれる作品になるような気がしている。
実はこの『一人交換日記』の感想を検索しているとき、かなり手厳しい批判を目にした。書いている人はまったく永田さんには共感できないようだった。書いている人は精神的にはかなり健全(という言い方も何だけど)な人のようだった。この漫画は明らかにそういう人に向けては書かれていないと思うのだけれど、話題作になると想定外の読者も読むから、拒否反応が出てくる人もいる。
「この漫画は自己肯定感の高い方には不快な内容が含まれています」というゾーニングは可能だろうか。私はたぶんあまり精神が「健全」ではない方なので、永田さんの描いていることには共感できる部分も少なくなかった。こういうものは正しいとか正しくないとか判断を下すものではないと思っているので、多少なりとも感情移入できる部分があればそれでいいと思っている。
こういうものに共感できる人とそうでない人の差はなんだろうか。今十分に人間関係に恵まれている人は、あまりこういう悩みはわからないかもしれない。もっと親から自立しなければいけない、という人もいるだろう。ところで自立とはなんだろうか。最近、こんな言葉を聞いた。
【メンタルヘルス三大名言】
— Dr.ゆうすけ (@usksuzuki) 2017年10月8日
「感じてはいけない感情はない」
「自立とは、依存先を増やすこと」
「暗い気分で下す決断は100%間違っている」
いずれも尊敬する先生方のことば。
この言葉に出会えているか、ハラ落ちしているかどうかで生きやすさは劇的に変わる。
自立とは誰にも頼らないことではなく、依存先を分散させることだ、ということである。依存先がたくさんあればひとつひとつの関係性は弱くてもいいし、あまり誰か特定の人の顔色をうかがわずにすむ。成長するに従って依存先が親から友人だとかパートナーだとか趣味の集まりだとか、あるいはなんらかのフィクションだとか、次第にバラけていくのが「普通」の人の生き方なのだと思う。
漫画を読む限りでは永田さんは親以外との人間関係があまりないようなので、それだけ親からの愛情が多く必要になっている、ということのように思える。永田さんに親から自立するべきだ、という人は誰にも頼っていないわけではなく、うまく依存先を分散することができているために一見誰にも依存していないように見えるのかもしれない。
永田さんの漫画は家族のこともそのまま描いてしまうので、漫画を見せられた母親はショックで泣いている(このことも漫画に描かれている)。母親の愛情を誰よりも必要としているのに、生活の糧となる漫画が親を傷つけるかもしれないとなると、これはしんどい。この作風はどれだけ続けられるものなのだろうか?と思っていたらやはりと言うか、永田さんは精神の調子を崩して入院している。この病院の描写もまたしんどい。こういう環境ではちっとも気が休まらないのではないだろうか。
私の基本的な人間感として、「人間はわりと簡単に壊れるものだ」というものがある。もちろんその壊れやすさについて、個人差はあるだろう。ただ、やはり人間はカーズ様のような完全生命体ではないので、他者からの肯定や承認がいくらかは必要になる。そういうものがうまく得られない、あるいは得られたと感じることができないとどうなるのか、ということを永田さんの漫画は教えてくれているように思う。
今のところ、たぶん私は永田さんほど生きていて辛いわけではない。ただそれは私のほうが頑張っているからとか、精神的に強いからだとか、そういうことではないと思う。知らず知らずのうちに周りからなんらかの感情的報酬を得ていて、そのおかげで壊れずにすんでいるだけのことではないだろうか。本当のところはわからないが、今どうにか生きていられるのは幸運のおかげなのだ、と思ったほうが、他者の痛みには寛容にはなれる。自己責任論を採用してこういう漫画を味わえなくなるくらいなら、自分は運がいいのだと考える方がいい。