明晰夢工房

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なぜ格言を使う人はおっさん臭いのか

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世の中にはこういう記事がよく出回っている。つまり、みんなおじさん臭いと思われたくないのだ。しかしおじさん臭くないように振る舞おう、と無理して若造りしてしまうあたりがまさにおじさんの悲しさであって、実はそういう行為が一番おじさん臭いような気もする。実年齢がおじさんである以上、おじさんは何をしてもおじさんであることから逃れられない。

 

とはいっても、やはりいかにもおっさん臭い行為というのはある。私が考える一番おっさん臭い言動は、やたら格言を使うことだ。何、仕事で行き詰まってるって?艱難汝を玉にすっていうじゃないか。石の上にも十年だよ。一念岩をも通すんだから一意専心、目の前の仕事に全力で取り組みたまえ。これこそ自分を磨くチャンスだよ。山中鹿之助も我に七難八苦を与えたまえって言ってただろう?これくらいのことが言えれば、立派なおっさんになれるのではないだろうか。

 

ところで、どうして格言を並べるとこんなにおっさん臭くなれるのだろう。説教臭いからだろうか。でも説教臭いのは必ずしもおっさんの属性ではない。まだ若いプロブロガーだって会社に隷属するなとか、もっと自由に生きろとか説教する人もいる。説教臭いだけでは立派なおっさんにはなれないのだ。では、どうして格言で説教するとあんなにおっさん臭いのだろう?

 

ここでちょっと自分語りをする。今よりずっと若いころ、つまりはまだ私がおじさんではなかったころ、私は結婚式場でアルバイトをしていた。ビデオカメラでカップルを撮影する係だった。この仕事中私がよく思っていたのは、最近は新郎もよく泣くんだな、ということだった。男は人前で涙を見せてはいけない、というジェンダー的抑圧から開放されるのはたいへん良いことではある。しかしこの時、ふと私の頭の中にこんな声が聴こえてきたのだ。

 

「まあ、新婦の流す涙は感動の涙だろうけど、新郎の流す涙はもう他の女の子とは遊べないっていう後悔の涙なんだろうなあ」

 

とても妙な感じがした。自分で思い浮かべたことなのに、何かすごい違和感がある。これ、一体誰が喋ってるの?これは本当に俺の考えか?何かが俺の頭を侵食してきていないか?そんな得体のしれない不安に心をつかまれた。

 

今思えば、あれは何かのマンガで読んだ台詞が自動的に頭の中で再生されていただけだったのではないかと思う。それが自分が新郎の涙に対して思っていたこととは違うから、心がある種の免疫反応を起こしていたということだ。自分の考えでもないことに頭を占領させるな、お前はお前だろうが、という警報が頭の中に鳴り響いていたのだ。

 

若い人というのは、自分が自分であることにこだわろうとする。だから、自分とは違う考えが心に侵入してくると、敏感にセンサーが違和感を検知して警報を鳴らす。しかしだんだん世間擦れしていくにつれて、人は世間の言い分を内面化していく。それが社会に適応するということの一側面でもあるし、年をとるにつれて感性がしだいに摩耗していくからどんどん世間の侵入を許してしまう、ということもある。世間に内面を侵食され、そのことに疑いを持たなくなったのがおっさんという存在だ。

 

格言というのは人生の教訓であり指針だ。そういうものを知るのはいい。しかし多くの場合、格言を他人に対して適用しようとするとき、人は複雑な現実を格言の「型」の中に押し込めてしまっている。そこで格言を用いようとするのはそれが権威として確立し、世間に通用しているからだ。人を格言に従わせようとするとき、その人は世間の側に立っている。この自分の言葉で語るのではなく格言に語ってもらうという姿勢が、世間の体現者であるおっさん臭い振る舞いなのだ。そういう私も、電車の中でスマホゲームに興じる若者を見ればそんな暇があるなら本を読め、光陰矢の如しだ、とついつい考えてしまう凡庸で保守的な人間になりつつある。

 

 人は常に自分の頭で考えることができるわけではないし、ある程度までは他人の頭で考えることは仕方がない。それは世渡りのための知恵というものだ。しかし年経りてもうすっかり心を世間に喰われつつあるこの私がこれ以上自分で思考することをやめてしまったら、それこそ正真正銘のおっさんの出来上がりだ。これ以上おっさん化を進行させないためには、手垢のついた格言を安易に用いることをやめなくてはならない。そして、常に学び続けることだ。ヘンリー・フォードも「学び続ける人は、たとえその人が80才でも若いと言える」と言っているのだから。