明晰夢工房

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『おんな城主直虎』が最終回まで描ききった「戦をしない戦」

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このドラマがここまでの傑作になると誰が予想しただろうか。

本の森下佳子は最終回が一番よく書けたと言っていたが、本当に素晴らしい大団円だった。

真田丸にもつながる赤備えの登場や龍の形の雲が湧き出るお頭の最期、碁石を使った「完」の粋な演出など、このドラマを見守ってきた視聴者には大満足の最終回に仕上がっていたのではないかと思う。

 

特に良かったのは、この最終回では「交渉人」としての万千代の活躍が描かれていたことだった。

このドラマでは今までずっと、「戦をしない戦」を描いてきた。

戦をするところは直虎の父直盛が桶狭間で戦死するところなど必要最小限にしか描写されることはなく、力を入れてきたのは徳政令をめぐる今川家との駆け引き、瀬戸方久の「銭の戦」、井伊を守るためあえて汚名を着る「目付」としての小野政次の孤軍奮闘の様子だった。

 

大河ドラマで女性を主人公にすると、戦には出られないという制限がかかってくる。だがこのドラマはそれを逆に利用し、戦国時代の普段光を当てられない、しかし本当は何より重要である内政と民百姓の有りようをドラマの前半の主軸に据え、地味ながらも弱小の国衆の苦闘を描き出すことに成功している。

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しかしこれだけなら新しい試みとはいえても、井伊谷という地域の小さな物語で事は終わっていた。この作品の凄いところは、ドラマ前半で直虎が国衆として辛酸を嘗め尽くしたことが全て後半への伏線になっていたことだ。

一族の男たちを次々に失い、もう戦で命が失われることを心底嫌っていた直虎の思いを、政次もよく理解していた。戦のない世を作りたい、という今まで何度も大河ドラマで聞いたこの台詞は、直虎が言うからこそこの上ない重みを持つ。そして、この二人の思いを背負って世に出たのが万千代だった。直虎と同じく、戦ばかりの世の中が嫌だと嘆く家康を天下人に押し上げることで、直虎の見果てぬ夢が現実となる。万千代が井伊家を再興し、家康に仕えたことで井伊谷の小さな流れがようやく天下へと至る大河へと合流した。井伊谷のローカルな物語は、大河ドラマとして完成するよう設計されていた。この構成の妙には驚くほかない。

 

後に井伊の赤鬼と恐れられ武将としても活躍する直政ではあるが、これまでずっと刀槍を交えない戦をしてきた直虎の後継者である万千代が最終回で為すべきことは、やはり交渉人としての仕事でなくてはならない。万千代はもともと才能も優れていただろうが、今川や武田や徳川など大勢力の狭間で苦労してきたことで万千代の外交感覚は磨き抜かれていただろう。国衆が何を求めているのかは、若くとも万千代こそが一番よく知っている。だからこそ、旧武田領の国衆へ説得に出向くのは万千代でなくてはならなかった。

 

思えばこのドラマは、長篠の戦い以前にも六左衛門が木を切り出すシーンを描いたりと、裏方の働きを描くことが多かった。これもまた、合戦を支える地味ながらも重要な仕事であり、「戦をしない戦」だ。派手な合戦シーンに頼らない作劇には、視聴者への信頼が感じられる。それでいてこの作品では次々と死ぬ井伊の男たちの姿や政次の最期や信康事件など、戦国の世の悲哀を今までのどのドラマより容赦なく描き出している。力のある脚本とはこういうものか、ということを思い知らされた一年だった。

 

 

『おんな城主直虎』は、ちょうど真田昌幸が独立して活動を始める時代に物語を終えている。一年間をかけて、『真田丸』に至る物語を見事に語ってみせたのだ。『真田丸』が信繁の華々しい戦場での活躍を描いて終わったのに対し、『おんな城主直虎』は、最後まで戦を正面から描くことはなかった。それは、これが直虎と、その願いを受け継いで平和な世を作ろうとしている直政と家康の物語だからだ。赤備えを率いて出陣するところを少しだけ描いたのはファンサービスみたいなものだろう。

 

家康がこのような背景を持っていることを考えると、真田丸で信繁と家康が対峙したシーンもまた違った色合いを帯びてくる。どちら側にもそれぞれの正義があり、互いが互いを相対化することが歴史を知ることの面白さだ。『真田丸』において三谷幸喜が突きつけた挑戦状に、森下佳子は脚本家としての全ての力量を持って応えた。これこそが、現代における最高の「刀を用いない戦い」だったのかもしれない。