明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

始皇帝研究の最前線に触れられる。『キングダム』愛読者にもおすすめの『人間・始皇帝』

 

人間・始皇帝 (岩波新書)

人間・始皇帝 (岩波新書)

 

 

講談社の中国の歴史シリーズの『ファーストエンペラーの遺産』の著者でもある鶴間和幸氏が始皇帝についての最新の知見を語ってくれている本。始皇帝についての文献史料良はほぼ史記に限られるので、文献だけを追っているとどうしても始皇帝のイメージは「暴君」のまま固定されてしまう。しかし中国ではたくさんの木簡が出土しており、これが文献史学を補完してくれる。本書では木簡のような考古学資料も用いつつ、始皇帝の実像に迫っていく。

 

始皇帝の人生は、その生い立ちからして暗い影を背負っている。詳細は省くが、つまりは始皇帝は秦の王室の血を引いておらず、後に秦の相国となる大商人・呂不韋の子なのではないか、という疑惑である。しかし本書によれば、どうやらそう思わせたがっている人物がいたようだ。呂不韋の寵姫が子楚と出会った時にすでに身ごもっていたとすれば、彼女は出産するまで12ヶ月も妊娠していたことになり、明らかに不自然だ。結局、呂不韋を排斥しようとする人々が彼を貶めようとそのように喧伝したのだろう、と本書では結論づけている。始皇帝を出生のトラウマを抱える人物と捉える必要はなさそうだ。

 

始皇帝にまつわる有名なエピソードとして荊軻の暗殺未遂事件があるが、本書にはこの荊軻についての考察にも一章が割かれている。この章の考察は面白く、「刺客」ではなく「外交官」としての荊軻像が浮かび上がってくる。燕にゆくまでの荊軻の足どりをたどってみると、一貫して秦の情報収集ができる土地へと移動を繰り返しており、実際に嫪毐の領地である太原群にも行っている。衛出身の荊軻は秦の東方侵略により故国を失っているので、そのあたりが秦への復讐を企んだ理由なのだろう。個人的にはこの章を読めただけでも収穫だった。

 

始皇帝が「暴君」と見られがちな一番の原因は、焚書坑儒にある。だが、始皇帝が本当に儒教を目の敵にしていたのだろうか。本書によると、実は始皇帝は礼治の必要性も理解していたのだという。始皇帝が巡幸の際に立てた刻石の文章には、「男女はそれぞれ礼に従って、つつしんで行動せよ」「邪悪な行動を許さず、みな良心と貞淑につとめよ」といった文章が刻んである。これらは孔子の主張した礼治主義とそう変わらない。法治だけで世を治めていくのが難しいことは、始皇帝も知っていた。

 

では、なぜ焚書などが行われたのだろうか。その理由は、実は秦の遂行していた戦争にある、と著者は言う。この頃秦では対匈奴戦と対百越戦争という、ふたつの戦争が戦われていた。特に百越を相手取る戦争には50万人もの兵士が送り込まれ、秦に大きな負担をかけていた。これは本当は戦争というよりも南方への開拓移住というのが実態だったようだが、いずれにせよ困難な国家事業であることにかわりはない。

これを批判したのが、博士の淳于越だった。淳于越は儒家の人物だったが、当時の丞相であった李斯が焚書令を提案したのは、この戦争批判の言説を封じ込めるためだったらしい。焚書と言っても儒家の書物が全て焼かれたわけではなく、儒家だけが弾圧を受けたわけでもない。始皇帝vs儒家という対立の図式は、儒教が国家体制の中心にあった後漢の時代に作り出されたものだ。坑儒という行為自体の残酷さは否定できるものではないが、始皇帝の実像に迫るにはこうした図式的な理解から離れる必要がある。

 

本書を読めば始皇帝のイメージが一変するかというと、そういうことはない。むしろより人物像がわかりにくくなった印象を受ける。だが、それは後世の脚色を含むわかりやすい人物像を離れ、より史実へと近づいていっているということでもある。始皇帝がどういう人物であったか安易に結論を出さず、まずは事実の前に謙虚であること、という、史学のあるべき姿がここにはある。