山本博文さんの名前を知らない方も、NHKの番組「知恵泉」に出演している歴史の先生といえば顔が思い浮かぶ方もいるかもしれません。
その山本博文さんが、『歴史の勉強法』のなかで、橋爪大三郎・大澤真幸両氏の『げんきな日本論』に言及し、その内容を10ページ以上にわたって批判しています。
『げんきな日本論』は社会学者の橋爪大三郎さんが「なぜ日本には青銅器時代がないのか」「なぜ日本には武士なるものが存在するのか」などの18の疑問を提出し、大澤真幸さんとこれについて語り合うという形式で書かれています。このテーマ設定自体はなかなか面白いのですが、歴史の専門家である山本さんからみるとお二人の議論は突っ込みどころが多いようです。たとえば、『げんきな日本論』では橋爪さんが頼朝の任じられた官位である右近衛対象のことを「下っ端のノンキャリアみたいなポスト」と書いていますが、これに対して山本さんは「これはあまりに日本史の知識のない遣り取りの一例です」と厳しく批判しています。 近衛大将は朝廷の武官の中で最高位の官職で、本来は征夷大将軍よりも上のポストです。つまり、朝廷は頼朝に武家としては最高位の地位を与えたということになります。
時代は下って、徳川幕府について橋爪さんは「徳川幕府に、幕府軍は存在しない。圧倒的な軍事力は、どこにもない」と書いていますが、ここにも山本さんは突っ込みます。
これは、まったくの誤解で、江戸幕府には平時でも、旗本軍として五番方(大番・書院番・小姓組番・新番・小十人組)がありました。新番・小十人組は幕府ができてから編成されるので別としても、幕府成立期には大番十二組、書院番八組、小姓組番六組の直属軍があります。大名に戦闘能力があるというのなら、幕府には個別版をはるかにしのぐ戦闘力があったわけです。
『げんきな日本論』では、橋爪さんは全国の大名は徳川家が強いという空気に従っているだけで、その強には実は実態がないのだという議論を展開しているのですが、そうではなく徳川幕府には圧倒的な軍事力があるからこそ全国の大名が従っているのだということです。
磯田道史さんは『殿様の通信簿』のなかで前田利常という人物について詳しく書いています。利常は前田利家の息子に当たる人物ですが、この人は戦国の最後の生き残りとでも言うべき人で徳川家への対抗心が強く、家光にも不遜な態度をとっていたため幕府からは警戒されていました。利常は軍備を増強し、石垣の普請もはじめたためについに幕府に呼びつけられることになってしまい、藩論は抗戦か江戸へ弁明に発つかでふたつに割れましたが、結局利常は江戸に赴くことに決めました。その理由について、磯田さんはこう書いています。
加賀百万石、実際には百二十万国あるのだが、動員兵力はせいぜい四万である。天下とのいくさになれば、徳川二十万の大軍が金沢城に押し寄せてくるであろう。豊臣は天下の名城大阪城に十万で籠城したが、あえなく踏み潰された。おんぼろの金沢城に四万で立てこもったとて、結果はみえている。
というわけで、利常が徳川幕府に屈したのは空気を読んだからではなく、幕府の持つ圧倒的な軍事力には到底かなわないと考えたからです。磯田さんは「英雄たちの選択」でもこの前田利常のことを取り上げていて、この人はもしかすると天下を取っていたかもしれない人物だとまで評価しています。それほどの資質を持つ人を抑え込むには、強大な軍事力によるしかありません。
また、本書ではイエズス会が信長に近づいた理由は信長に中国を武力制圧させ、キリスト教を広めるためであるという立花京子さんの説を肯定的に紹介しています。この説は史料の裏付けのない典型的な陰謀論であると『陰謀の日本中世史』のなかで批判されているものです。
史料の裏付けのないことでも主張する自由はありますが、そのような主張は歴史研究としては支持されるものではありません。そうした主張を取り入れている点から見ても、この『げんきな日本論』はあくまで社会学者がアカデミズムの蓄積とは別に自由に対談を繰り広げたもの、として読む必要がありそうです。