明晰夢工房

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大英帝国の中でハイランダーはどう生きたか──井野瀬久実恵『大英帝国という経験』

 

興亡の世界史 大英帝国という経験 (講談社学術文庫)

興亡の世界史 大英帝国という経験 (講談社学術文庫)

 

 

これは興亡の世界シリーズの中でも注目されるべき一冊であるように思う。というのは、本書ではスコットランドアイルランド奴隷解放、移民やレディ・トラベラーなど、大英帝国の中の周縁やマイノリティについてまんべんなく記述されており、最盛期のイギリスを多角的な視点から捉えることができるからだ。イギリスの政治史について一から学べる本ではないが、基本的な政治史を知っているなら本書で大英帝国の社会や文化についてより深い理解を得ることができる。

 

本書を読んでいてとりわけ興味を惹かれたのは、第2章「連合王国と帝国再編」で書かれているスコットランドアイルランドの境遇だ。ここでは近世のスコットランド史について簡潔に触れられているが、普通は「無血革命」といわれる名誉革命スコットランドにおいてはグレンコー事件という凄惨な虐殺を生じていたことがわかる。この事件はスコットランドハイランダー(ハイランド住民)に激しい憎悪を引き起こし、のちにカロデンの戦いにおいてイギリス軍とハイランダーが戦う事態にまで発展した。この戦いを指揮し、ハイランダー掃討を展開したカンバーランド公BBCが2005年に「最悪のイギリス人」18世紀部門に選んでいる。

 

このカロデンの戦いの後、スコットランド人は5つの「M」ではじまる職業で活躍したといわれる。中でもハイランダーが活躍したのはmilitary、つまり兵士だ。連合王国政府がハイランドの氏族を解体し、土地から追放してしまったためである。イギリス人にとり陸軍兵士はどんなに貧しくともなりたくない職業だったが、そういう食に就かなければいけないほどハイランド人は苦しい境遇にあった。ハイランド部隊の男たちは七年戦争アメリカ独立戦争の最前線で活躍し、死んでいった。ハイランダーの勇敢さはイングランド人の将校も感動させたといわれる。

 

このようなハイランダーの活躍は、第9章「準備された衰退」でもふたたび描かれている。ボーア戦争南アフリカ戦争)の捕虜収容所に居合わせたアリス・グリーンは、ボーア軍のドイツ人の証言として、このような発言を記録している。

 

イングランド人は財産保全を約束しながら、将校たちまで略奪に加わった。ほしくないものまで彼らは略奪した。それに比べて、スコットランド・ハイランド連隊の兵士たちがどれほど勇敢に戦ったことか!彼ら以外の兵士は、戦闘など気にもせず、略奪に夢中だった。

 

大英帝国の都合につき合わされているハイランド人が敵にまで称賛されるほど勇敢であり、イングランド人は野蛮であった。この捕虜収容所では、アイルランド人兵士に対しても多くの好意的な証言が得られている。大英帝国の周縁で苦しめられた人びとのほうが立派であったというこの事実は、何を意味するのか。イングランド人のほうが狡猾であったからこそ、彼らを支配することができたということだろうか。いずれにせよ、こうしたスコットランド人やアイルランド人の姿はもっと知られていいのではないかと思う。

 

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 近世のスコットランドが背負った労苦については岩波新書の『スコットランド 歴史を歩く』が詳しい。グレンコー事件についてはこれを読めばより深く知ることができる。