明晰夢工房

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【感想】『鹿の王』の最大の魅力は「あたりまえを活写する力」

 

鹿の王 (上) ‐‐生き残った者‐‐
 

 

鹿の王 (下) ‐‐還って行く者‐‐
 

 

一読し、100万部以上売れる本にはやはりそれだけの理由があるのだ、と強く感じた。

良い作品が必ずしも売れるわけではないが、たくさん売れる作品には売れるだけの力がある。

ベストセラー本のなかにはただ時流に乗っただけのものや、売る側がうまく仕掛けたものも少なくないだろうが、『鹿の王』はこの物語の地力の高さ、そして普遍性の高さが多くの人に支持されている理由だろう。

物語の設定が細部にいたるまで作りこまれているので、読者はあたかもこういう世界がどこかに存在しているかのように、物語のなかに没入できる。守り人シリーズもそうだったが、これはもはやフィクションというよりも、ひとつの独立した別世界を小説という形で再現してみせているかのようだ。たとえばジョージ・R・R・マーティンの『氷と炎の歌』シリーズ(ゲームオブスローンズ原作)がそうであるように、どこかにこのような世界が存在していて、そこに作者がアクセスして見聞きしたことをそのまま書いているようにすら思えてくる。作者の上橋菜穂子は、『炎路を行く者』のあとがきで「私はもともと寡作な作家ですが、それは、物語を紡ぎたいと思う衝動がやってくるのを待つという、実に非効率的な方法でしか執筆ができないからです」と書いているのだが、これほどの物語を技術ではなく「物語を降ろす」ような形で書いているのなら、驚くべきことだ。

 

(少なくとも上巻においては)派手なバトルも、国同士の大規模な戦争も起こっておらず、メインに据えられているのは伝染病という地味なテーマであるのにこれだけ読まれているのは、それだけ異世界の構築がうまくいっているからだ。この『鹿の王』は、途中から大河ドラマ化して世界が広がっていった守り人シリーズとはちがい、最初から基盤となる世界観がかなり詳しく説明されている。

序盤で出てくる国や地方、氏族や国ごとの習慣の違いなどの情報量はかなり多いが、ここをクリアできれば誰でもこの世界にのめりこめることだろう。私みたいな設定厨からすると、この情報量の多さはむしろありがたい。はるか東方より興り、下層民を遠方に入植させている東乎瑠帝国。そして東乎瑠に服属しているアカファ王国。東乎瑠の入植民によりユカタ平原を追われた<火馬の民>、そしてアカファ最西端に住み飛鹿の部隊を自在に操るガンサ氏族の「独角」……これらの設定が心に響く人なら、誰でもこの長大な物語を読む資格がある。

 

本作には冒険小説の要素もあるので、中にはおもしろい設定がある。かつて「アカファ王の網」と呼ばれていた「跡追い」の術を持つ者が本作には登場する。見かけはごく普通だが凄腕の「狩人」であるサエは「跡追い」の技を用い、ホッサルの意を受けてアカファ岩塩鉱から逃亡したヴァンを追跡することになる。

追跡といっても、サエはウィッチャーのように足跡や匂いが見える異能を持っているわけではない。サエはあくまで現場の椅子や残された体毛などから本作の主人公・ヴァンのプロファイリングを行い、どのように逃げたかを探っていく。その推理の過程は現実的で、地に足のついたものだ。ファンタジー作品とはいえ、その内容が決して現実から遊離しないところに上橋作品の魅力がある。

 

『鹿の王』の一方の主人公は、かつて飛鹿の部隊を率いていた「欠け角のヴァン」と呼ばれていた男だ。物語は、アカファの岩塩鉱で奴隷として働かされていたヴァンが、突然侵入してきた獣に噛まれるところからはじまる。獣に噛まれた他の奴隷は皆死んでしまったが、なぜかヴァンだけは生き残る。噛まれたことで体内に奇妙な力を宿したヴァンは岩塩鉱を脱出し、第二の人生をスタートさせることになる。

この岩塩鉱に蔓延した「黒狼熱」の調査と治療にあたることになった若き天才医師・ホッサルが、この物語のもう一人の主人公だ。ホッサルは古オタワル王国の始祖の血を引く人物という設定になっているが、オタワルの人々は高い医療技術を持っており、ホッサルは免疫系の知識すら持っている。ホッサルの助手ミラルなどは黒狼熱に対処するため、黒狼熱で死んだ者の死体から病素を取り出し、病の発症を予防するための「弱毒薬」を作ろうとさえする。このようにかなり現代医学に近いオタワルの医学は、やがて呪術的要素の強い東乎瑠医学と軋轢を生じるようにもなるのだが、こうした医学の設定までも詳細に作りこまれているのも『鹿の王』の魅力だ。

 

アカファ岩塩鉱山を無事脱出したヴァンは、旅の道中でトマという若者を助けたことをきっかけに、アカファ北部のオキ地方へと導かれる。オキ地方はさまざまな地から流れてきた遊牧民が集まる土地で、トナカイとともに移動しつつ生きているが、山地と森が広がる地域ではトナカイを飼いつつ猟をするものもいる。この地方はよそ者を受け入れる土地で、ヴァンはすぐれた狩猟能力を持っていることもあり、トマの氏族では歓迎された。

このオキ地方での生活は3章の「トナカイの郷で」でくわしく描かれることになるが、この章の雰囲気がすばらしい。岩塩鉱から連れてきた幼子ユナとトマの氏族とともに暮らす歳月は、物語として見ればやや起伏に乏しいかもしれない。しかし、静かな森に抱かれて暮らすトナカイ遊牧民の暮らしの描写は、あたかも実在する人々の民俗誌を読んでいるかのように鮮やかに目に浮かんでくる。この暮らしがあまりに平和で牧歌的なため、いつまでもこの世界に浸っていたいような気分にもなってくる。

もともと飛鹿乗りだったヴァンはこの地で飛鹿の繁殖のさせ方も教えているが、鹿が囲いを超えないように「モホキ」という苔でつくった縄を柵に結び付ける様子や、飛鹿の出産の描写などを読んでいると、架空の動物である飛鹿が本当に存在するかのように思えてくるから不思議だ。飛鹿を育てると税が軽くなるが、飛鹿が育てた者にしかなつかない習性を東乎瑠が知ったら飼育者が徴兵されそうだという世知辛い事情も見えてくるあたりなど、むしろノンフィクションを読んでいる気分にすらさせられる。幸村誠が『流れ行く者』のあとがきで書いているとおり、上橋菜穂子作品の魅力である「架空世界における日常生活の描出力の見事さ」が、本作でも遺憾なく発揮されているのだ。

 

これだけていねいに生活の細部を描いているのは、この後の展開に説得力を持たせるためだろう。オキでの静かな生活は長続きせず、やがてヴァンは「谺主」というワタリガラスに魂を乗せることのできる人物に呼び出されることになる。このあたりはかなりファンタジー色が強めで、ここだけ取り出せば現実味はない。しかし、オタワル医学の免疫系の知識や、オキでのトナカイ放牧など現実的な部分の描写をみっちりとやっているおかげで、不思議とこのファンタジー描写もこの世界ではあり得るものとすんなり受け入れることができる。

「錯覚資産」という概念がある。人はある能力が優れていると、その他の部分も優れていると錯覚されてしまうそうだ。これと同じように、フィクションにおいても生活や風習などの現実的な描写を丁寧に行うことで、ファンタジー色の強い部分も現実であるかのように錯覚できるのかもしれない。本業が文化人類学者である上橋菜穂子は、その職能を活かして作品内での人々の生活を見てきたように描いているが、それが作品全般に強い説得力を生む効果をもたらしている。ふたたび幸村誠の言葉を借りると、『鹿の王』は日常生活=あたりまえを描いているからこそ、非日常の世界の魅力もまた際立つ。

 

流れ行く者: 守り人短編集 (新潮文庫)

流れ行く者: 守り人短編集 (新潮文庫)

 

 

上橋菜穂子作品の大きな魅力のひとつに「架空世界における日常生活の描出力の見事さ」が挙げられると思います。

日常生活、つまり「あたりまえ」です。人々があたりまえの家に暮らし、あたりまえの仕事をし、あたりまえの物を食べる。囲炉裏の炎、カチの実の殻割り、鳥追い縄、父や兄の大きな背中。

ファンタジー小説においては省略されがちなそれら日常生活風景を、上橋菜穂子は丹念に描いてゆく。豊富な知識とアイデアが惜しみなく世界観の描写に投入されてゆく。例えるなら、城の土台の石垣作りです。土台がしっかりしていればこそ、その上にストーリーという立派な城を築くことができる。槍騎兵団が大地を駆け、密偵が跋扈し、精霊の大いなる力が様々な現象を引き起こすのも、この堅固な土台があったればこそです。

すでに多くのファンに認識されている上橋菜穂子作品の特徴です。しかしここでもう一度その日常描写力について述べさせていただくのは、この「あたりまえ」を活写する力が、取りも直さず「あたりまえから逸脱した者」を浮き彫りにする力でもあるからです。

(『流れ行く者』p294-295)

 

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「暴力が嫌い」いという価値観を描くには暴力に満ちた世界を描くべきだ、としてヴィンランド・サガを戦争の描写からはじめた幸村誠は、コントラストの効果をよく理解している。守り人シリーズバルサも、『鹿の王』のヴァンも、「あたりまえから逸脱した者」だ。逸脱のつらさ、過酷さを描くには、まず「あたりまえ」をきちんと描いておく必要がある。トマの一族とともにトナカイと飛鹿を育てる「あたりまえ」の生活を送っていたヴァンは、しかし獣に噛まれて「魂が裏返る」奇妙な力を身につけた逸脱者だ。ヴァンは宿命的に、「あたりまえ」に生きることができない。

 

黒狼熱の被害をふせぐため、獣に噛まれてなお生き残ったヴァンをホッサルは探している。下巻においてこの二人はついに出会い、会話を重ねることになるが、ここで二人は黒狼熱の秘密の核心にかなり迫ることになる。しだいに明かされる黒狼熱の発生する理由や、ヴァンの「魂が裏返る」現象の正体などは知的好奇心を強く呼び起こすものであり、しかも黒狼熱の発生にはそれぞれの民俗の風習が強くかかわっていることもわかってくる。ここにも、「あたりまえの生活」の描写が活きてくる。オキの民や火馬の民、そして東乎瑠国民などの「あたりまえの生活」が、黒狼熱の謎を解くカギとして一気に立ち上がってくるのだ。ここにおいて物語が立体的になり、読者はていねいに張られた伏線が回収される快感を味わえる。『鹿の王』は一種の医療ミステリとしても読むことができるのだ。

 

『鹿の王』は病気をテーマとしているだけに、死が身近な世界だ。黒熱病だけでなく、戦で命を落とすものも多い。この世界は現代社会よりもはるかに危険なのだ。それでも、やはり死は多くの人にとり非日常の出来事でもある。黒狼熱のように死に至る病に罹患することもまた、「あたりまえからの逸脱」だ。病と死を浮き彫りにするためには、対極にある「あたりまえの生活」をまず描いておかなくてはならない。3章の「トナカイの郷で」で描かれている静かで豊かな生活は、素朴な生命賛歌でもある。地に足の着いた生活を描くこの章はファンタジックな描写を際立たせるための章であると同時に、そうした平和な生活を根こそぎ破壊していく病の恐ろしさを心に刻みつけるためのものでもあるだろう。命の尊さを描くなら、その対極にある病と死も描かなくてはならない。それは、上橋菜穂子幸村誠のようなすぐれた創作者なら皆理解していることだ。