明晰夢工房

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【書評】『世界の辺境とハードボイルド室町時代』文庫版の「近未来日本に中学氏族が出現する」という話が面白い

 

世界の辺境とハードボイルド室町時代 (集英社文庫)

世界の辺境とハードボイルド室町時代 (集英社文庫)

 

 

 この本の面白さはもうあちこちで語られ尽くしている気もするし、実際一度手に取ったが最後巻を措く能わず、という本なんですが、私にとっては読んでいてとても「気持ちがいい」本でした。

なにが気持ちいいって、高野秀行さんと清水克行さんの互いの仕事へのリスペクトぶりが気持ちいい。二人ともお互いの書いた本をよく読みこんでいて、特に高野さんの清水さんの著書への傾倒ぶりが尋常でない。学者である清水さんは当然として、対談相手の高野さんも相当に知的な人で、二人の対談はあたかも知の異種格闘技戦といった趣があります。辺境の探検家と中世日本の研究者という別々のフィールドで培われた知見が、互いを引き立て合い、思わぬ相乗効果を生んでいる。およそ知的好奇心というものを持つ人なら、本書を楽しめることは間違いないでしょう。

 

一読して、やはりこの本の白眉と感じるのは1章の「かぶりすぎている室町社会とソマリ社会」です。この章では、ふたりの対談を通じて室町時代とソマリ社会の共通点と相違点を浮き彫りにしていきます。

まず共通点としては、室町時代もソマリ社会も公権力とは別次元の、地域社会の法慣習がある、ということです。中世日本では盗みの現行犯は殺していい、というルールが存在しましたが、高野さんはアフリカで市場で盗みを働いた人がリンチされる現場を何度も目撃しているのです。いずれも現代日本に比べてかなり荒々しく、危険な世界です。

 

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ですが、どちらの世界にもそれなりの秩序というものがあり、北斗の拳のような無法地帯ではありません。むしろ、一度盗みを働くとシャレにならない報復を受けるからこそ、治安が保たれているという現実があるのです。清水さんが言うとおり、こういう社会では「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いはナンセンスです。人を殺せば自分もまた殺されるだけのことだからです。こうした地域社会での秩序は辺境に行くほど強いと高野さんは語っていて、それに比べてヨハネスブルグラゴスなどの都会ほど危険なのだそうです。

室町時代も危険は危険なのですが、この時代にくらべてもある意味現代の都市の方が危険だ、と清水さんは語っています。室町時代の人は暴力の怖さを知っていたので、これを制御するすべも知っています。それに比べ、東京で起きる暴力のほうがよほど脈絡がなくて怖い、というのです。しかも都会では喧嘩が起きても仲裁する人がいない。こういう点から考えると、現代社会特有の危険というものも見えてくる気がします。

 

一方、室町社会とソマリ社会でははっきり異なる点もあります。それは、中世日本には「賠償」という発想がないことです。ソマリランドでは男性一人が殺されたらラクダ100頭で賠償するという決まりがあり、当事者が所属する氏族集団がこれを支払います。中世日本にこういう習慣がないことは法制史上の大問題だそうですが、これは肉親の命はお金に変えられないという感覚のせいではないか、と清水さんは推測しています。仇討の風習は江戸時代まで存在していたし、今だってお金で人の命は償えない、という感覚は根強くあると思いますが、やはり古くから培われた価値観はそう簡単に変わらないのかもしれません。

 

「刀狩り」に関する二人の見解も実に興味深いものがあります。刀狩りとはいわば「百姓の武装解除」なわけですが、高野さんの本にもソマリランドの内戦終結の過程で、すべての武装集団が氏族の長老に武器を差し出したことが書かれています。これもある意味「刀狩り」のようなものです。

ところで、高野さんが語っているとおり、日本史において刀はあまり主要な武器ではありません。戦国時代なら、主要な武器は槍や弓です。刀は「武士の魂」であり、シンボルとしての意味合いが大きいのです。この槍と刀の関係が、ソマリランドでは自動小銃とピストルに相当する、と高野さんは語ります。殺傷力では自動小銃はピストルにはるかにまさっていますが、ピストルは将校以上しか持てないもので、名誉の象徴になります。ピストルにただの武器以上の価値があるなら、これを取り上げて武装解除することはむずかしくなります。所持することに意味があるという点で、刀とピストルはとても良く似ているのです。

 

内戦が終わり、平和になった徳川日本とソマリランドにもやはり共通点があります。江戸時代では元禄期にもまだ戦国の気風にあこがれる空気があり、試し斬りなどをするかぶき者の存在が社会問題になっていましたが、ソマリランドにもわざと着崩した格好をしたり、女物のスカーフを頭に巻いている民兵が存在しています。こういう人たちを高野さんは「かぶき者」と表現しているのですが、国も時代も違うのに、状況が似ていれば同じような人々が出現する、ということは確かにあるようです。ソマリランドの現在が中世日本を照らし、中世研究の知見がソマリランドの理解を深める、という好循環がここに生まれています。

 

刀狩り―武器を封印した民衆 (岩波新書 新赤版 (965))

刀狩り―武器を封印した民衆 (岩波新書 新赤版 (965))

 

 

刀狩りといえば、岩波新書の名著『刀狩り─武器を封印した民衆』の著者、藤木久志さんのエピソードもこの本では紹介されています。実は清水さんは藤木久志さんの授業を受けて「百姓と領主の関係は契約関係とはいえないのではないか」と大胆な質問をぶつけたことがあるのだそうです。藤木久志さんはもう著名な先生だったにもかかわらず、立教大学のキャンパスの中庭を3周しながら質問に答えてくれたそうです。藤木久志先生の真摯さに感動した清水さんが研究者に憧れるようになったというのだから、藤木さんはある意味この本の生みの親でもあるのです。

 

と、ここまでは単行本の『世界の辺境とハードボイルド室町時代』にも書かれていることですが、文庫版の魅力は巻末に収録された特別対談にあります。この対談で、二人は「この先日本が中世化するかもしれない」という問題意識を共有しています。

 老後に備えて2000万円の貯蓄が必要だ、という金融庁の報告書が話題になったように、もう国は国民を守ってくれないのかもしれない、という認識は、少しづつ私たちの間にも浸透しつつあります。国を頼ることができないのなら、この先日本人が頼りにするものとは何なのか。高野さんは、それは「中学氏族」ではないかと推測します。 東日本大震災のあと、ある地域を取材するときにはまず地元の中学の元番長にあいさつをする必要があった、というある新聞記者から聞いた話を高野さんは紹介しているのですが、「同中」の結束力は地域によってはとても強いものだったりするのです。

 

一時期は日本の企業は機能集団ではなく共同体になった、と言われたことがありましたが、終身雇用制が崩壊していく中、もはや企業に共同体としての機能は期待しにくいのが現実です。だとすれば、その後を担うのは「中学氏族」なのか。この話は半分笑い話のような雰囲気で進んでいるのですが、現代日本において共同体の母体になりうるものがあるとすれば、それは同じ中学で学んだ仲間、くらいしかないのかもしれません。だとすると、地元の中学校になじめなかった人にはなかなか生きづらい社会が到来しそうな気がします。

 もっとも、この話は中学校同士が抗争をくり広げていたような時代を生きてきた二人の対談だから出てきた話であって、『今日から俺は!!』を異文化として楽しんでいる現代の若い人が年を取るころには、ヤンキー文化を基礎とする「中学氏族」も廃れているかもしれません。清水さんは、「中世の抗争もツッパリの抗争にたとえればわかりやすいかもしれない」と言っていますが、高野さんは「今の学生にとってはそれは異文化だ」と突っ込んでいます。室町本もヤンキー漫画同様「異文化」として消費されているとするなら、この『世界の辺境とハードボイルド室町時代』もその延長線上で売れているのかもしれません。動機はどうあれ、このエキサイティングな対談が多くの人の目に触れるのが喜ばしいことは確かです。

 

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清水克行さんの本では『戦国大名と分国法』も大変面白いので強くおすすめします。