本が与えてくれるものとは何か
1巻かけてようやく真の主人公となったシオは、いよいよ司書試験を受けるため旅に出ることになった。
この2巻で印象に残ったのは、「本が与えてくれるもの」だ。
シオはアムンの村を離れ、最初に滝の町ハムセにたどりつく。
シオはハムセの町の市場で、東洋風の外見を持つラコタ族ともめ事を起こしている少女チャクと出会う。
チャクはラコタ族に無礼なことをされたと怒っているのだが、本当はそうではない、ということを教えるため、シオはチャクをハムセの図書館に連れていく。
頭を叩いたり、舌を出したりするラコタ族の風習にはそれなりの意味があり、無礼を働いたわけではないということを、チャクは図書館の本で知り、認識を改めることになる。
ここで大事なのは、シオはチャクに一方的にものを教えようとはしていない、ということだ。
シオは自分の耳を気持ち悪いというチャクに、「君は正しい」と理解を示している。
知らないものには近づかないこと、それが自然の中で生き残るために必要な知恵だった。
だから人は異民族を避けてしまうのだ、とシオは言っている。
まずチャクの感情は自然なものだと認めたうえで、ラコタ族に対する偏見を解こうとしているのだ。
ただ正論をぶつけるだけでは人は動かないということを、シオはよく理解している。
シオはハムセの町に入るときに住人に奇異の眼で見られているし、チャクにも耳のことをバカにされているのだが、シオはまったく傷つく様子を見せていない。
もちろんシオが精神的に成長したからだろうが、加えてシオがアムンの図書館で読んだ本から「人は本能的に異質なものを恐れる」という知識を得ているからでもあるだろう。
それを知っていれば、奇異の目で見られてもそれも自然なことだと受け止められるし、過度に傷つくこともなくなる。知識とは、自分の心を守る盾でもあるのだ。
そして、知識は差別と偏見をなくすのにも役立つ。
多くの場合、差別や偏見は相手をよく知らないことから生まれる。
だからこそ、 シオはラコタ族の風習についてチャクに教え、彼女の誤解を解くことができた。
シオが民族間のトラブルを解決するために知識を使おうとするのは、自分自身が混血児として蔑視されてきた経験があるからだろう。
シオにとり、 出自や民族が理由で差別されることは、最もつらいことに違いない。
だから、わざわざ自分とは無関係なラコタ族への誤解まで解こうとするのだ。
このように『図書館の大魔術師』では、知識をどう用いるかでキャラの性格を描いている。
大げさに言えば民族間の融和のために今まで学んだ各民族の風習や言語の知識を用いようとするシオの振る舞いには、彼の性格がよく出ている。
知識だけを得ることの危うさ
知識が差別と偏見を減らすということは、シオが噴火口の町イツァムナーに来るとさらにはっきりする。
イツァムナーは本の普及している町で、大通りが全部本屋で占められている。
子供たちもよく本を読んでいるので、シオの金髪を見ても恐れることもなく、蔑むこともない。自分が知らない世界があるということを、本を通じて知っているからだ。
とはいうものの、知識がいつでも人に恩恵をもたらすとは限らない。
2巻の冒頭に書かれているように、「本の知識とは偉大なものだが、経験に勝ることは決してできない」。
数多の本を読み知識を蓄えても、人生経験が浅ければ、その知識の用い方は危ういものとなってしまう。
この町ではじめて登場するミホナは、「知識の用い方の危うさ」を体現しているキャラクターだ。
最初だけはクールな感じで登場しているものの、実はミホナは小説に感化されやすい性格だということが、読み進めるとわかってくる。
それを象徴するのが、ミホナが馬に乗って突進してくる新刊泥棒の前に立ちはだかろうとするエピソードだ。
ミホナが小説から得た知識では、こういうことをすれば相手は止まってくれることになっているのだが、実際には新刊泥棒たちはスピードを緩めることすらしなかった。
この知識は本当に現実に応用できるのか、ということを考えるだけの思考力と人生経験が、ミホナには足りていない。
「学びて思わざれば則ち罔し」だ。『図書館の大魔術師』は読書の大切さを一貫して解いている漫画だが、知識に偏重することの危険性はしっかり戒めている。
先に「知識をどう用いるかにそのキャラの性格が出ている」と書いたが、ミホナは本から得た知識をおもに「自分をよく見せること」に使っている。
自分を物語の登場人物のように感じているミホナは、小説のキャラクターのように自分自身を演出したがっているのだが、それがいつも空回りしているところにミホナの性格がよく出ている。
対して、シオがこの町で出会うもう一人のキーパーソンであるアルフの性格は、ミホナとは正反対だ。
アルフは見た目が幼いことを利用し、周囲に油断させることを狙っている。
アルフの行動原理は「自分が最も得をすること」であり、それはケチな骨董屋の主人に古本をねだるエピソードにそれがよく表れている。
狡猾で世渡りのうまい性格と、豊富な本の知識を持っていることで、アルフは価値の高い特別製本の本を安く手に入れることに成功している。
2巻でもやはり要求される「主人公としての振る舞い」
だが、このようなアルフの知識の使い方は、主人公にふさわしいものではない。
それは、自分をよく見せることばかり考えているミホナが主人公にはなれないのと同様だ。
シオはこの巻において、骨董屋の主人に傷ついたシトラルポルを譲ってほしいと懇願し、ひたすら主人の暴力を受け続けている。
何の計算もない、アルフに言わせれば「知能の低さに涙が出る」ような行為だ。
しかし、わざわざ身を盾にして傷ついた動物を守ろうとするこのシオの振る舞いだけが、唯一主人公らしいものだ。
シオが持っていて他のキャラクターにはないものが、自己犠牲の精神だ。
シオは血統や生まれつきの能力によって主人公に選ばれているわけではない。
『図書館の大魔術師』1巻においては、シオは1巻かけてようやく主人公としての資格を得ることができた。
それができたのは、シオがセドナから借りた本を炎上する図書館の中から救い出したからだ。
セドナが言っているとおり「たとえ愚かと言われようと、立ち向かわねばならないことが主人公にはある」。
2巻においても、シオはシトラルポルを身を呈してかばうことで、それを体現してみせている。
賢い行為ではないが、この物語ではそもそも賢すぎるものは主人公になる資格は得られない。
その理由が、後半の回想シーンの中で語られている。
『図書館の大魔術師』の世界はまったく甘くはない。
シオの師匠ともいえる石工の親方ガナンは、この世で人が成功する要因とは「生まれた地域、親の財産、容姿」だとはっきり語っている。
この3要素はすべて先天的なもので、後天的な努力では成功などできない、とガナンは言っているのだ。
司書もまた都会の金持ちの女性が目指すものであり、シオが司書試験に合格する確率は高くない。彼は圧倒的に不利な試験に挑もうとしている。
しかし、ガナンは一方で「前にいる奴全員を負い抜く快感は最後尾にしか味わえない特権だ」とも語っている。
あまり賢い人物は、こういう話を真に受けることはできない。
1巻の終わりでシオは様々な職に就くことをすすめられているが、司書になることなどあきらめて、地元の図書館で働くなり、教師になるなりした方がどう考えても現実的なのだ。
しかし、それは主人公らしい振る舞いではなく、それでは物語が始まらないこともシオはよく理解している。
主人公らしい振る舞いとはどういうものか、それは最初はセドナが教えてくれたものだが、それが身についたのはシオがガナンのそばで働いていたことが大きい。
そのガナンが司書試験に赴くシオを導いて旅をしているのは、いかにも示唆的だ。
ガナンの元を離れる時がシオが真に自立するとき、ということになるだろうか。