瀧本哲史の『武器としての交渉思考』には、労使交渉において「コモディティ人材」になってはいけない、という話が出てくる。
コモディティ人材とは「ほかにいくらでも代わりがいる人材」という意味で、自分がこの人材になると、企業から労働力を安く買いたたかれてしまう。
だから交渉において有利となるような「バトナ」を持たなくてはいけない、と瀧本哲史は解く。
バトナとは”Best Alternative to a Negotiated Agreement”の頭文字を略したもので、「相手の提案に合意する以外の選択肢のなかで一番良いもの」のことだ。
バトナを持たないかぎり、労働力はいかに安く売るかで競争するしかなくなってしまうため、つねによりよいバトナを探して人生を自由に豊かに生きることが大事なのだ──というのが、瀧本哲史が生前よく主張していたことのひとつである。
バトナを持たなければ、その人は企業に対し交渉力を持つことができない。
これは労使交渉という場での話だが、人間関係全般に話をひろげると、やはり「コモディティ人材」から抜け出すことが大事だ、という話をしている人がいる。ほがらか人生相談の「神回答」が有名な鴻上尚史だ。
コモディティ人材とかバトナとかいう言葉こそ使っていないが、彼は本質的には瀧本哲史と同じ話をしている。
そのことがよくわかるのが、『鴻上尚史のほがらか人生相談』相談10の「学校のグループ内で私は最下層扱い。本当の友達が欲しいです」という悩みへの回答だ。
相談者のあさひさんは、今いる5人グループのなかでは自分はいてもいなくてもいいような感じで、まるでこちらの意思は尊重してもらえない。でも一人になるのも嫌だということを話している。
この悩み相談で、鴻上尚史は「人間関係の本質とは、おみやげを渡し合うこと」と喝破している。
僕は人間関係は「おみやげ」を渡し合う関係が理想だと思っています。
「おみやげ」っていうのは、あなたにとってプラスになるものです。楽しい話でもいいし、相手の知らない情報でもいいし、お弁当のおすそ分けでもいいし、優しい言葉でもいいし、マンガやDVDを貸してあげるのでもいいし、勉強を教えてもいいし。
(中略)
そして、恋愛も友情も、どちらかが「おみやげ」を受け取るだけで、何も返さなくなったら、その関係は終わるだろうと思っているのです。
(p90)
こう書いたうえで、鴻上尚史はあなたはそのグループの人たちと「友達のふりをする苦痛」と「ひとりのみじめさ」を天秤にかけ、どちらがよいかをじっくり考えてみましょう、と提案している。そして、自分にはどんな「おみやげ」が渡せるかを考えてみましょう、ともアドバイスしている。
これは、人間関係におけるコモディティ人材を抜け出すためのアドバイスだ。おそらく、相談者のあさひさんは独りぼっちが嫌なので今のグループでの最下層の扱いに甘んじている状態だろう。あさひさんにはよりよい選択肢、つまりバトナがないのでこのグループに対しての交渉力がなく、扱いに不満があっても耐えるしかない。
鴻上尚史がここで友達のふりをする苦痛と一人のみじめさとどっちがましですか、と聞いているのは、もし一人の方がまだましだ、と考えられるならあさひさんは一人の状態をバトナとして持つことができるからだ。グループのメンバーがあさひさんを雑に扱うのは、「この子はほかに所属できるグループもないだろうし、一人にもなりたくないだろう」と足元を見られているからだ。バトナがないために不利な役割を押し付けられるのだから、一人になるという選択肢もあるということを示す必要がある。
そしてそのうえで、どんな「おみやげ」なら自分にも手渡せるのかをよく考え、実行できれば今いるグループよりもより良い人間関係が得られるかもしれない。そうなれば、これが新たなバトナになるので今のグループから抜けることもできる。おみやげの種類をたくさん持てば、新しいグループでもただの数合わせ要因として扱われることはなく、みじめな思いをする必要もなくなる。
多くの人は独りぼっちになるのが嫌なので、誰でも「寂しさを埋める」という最低限のおみやげを手渡すことはできる。しかしこれだけだと、コモディティ人材状態は抜けられない。それはまさに誰でもできることだからだ。寂しさゆえにつき合いはじめた相手が寂しさを埋める以上の価値を持った新しい友達を見つけたら、その人との関係をより重視するようになるだろう。だから、鴻上尚史はこう質問している。
恋愛にたとえるとわかりやすいですかね。さびしいから恋人がほしいなら、さびしさを忘れさせてくれるならだれでもいいことになりませんか。それは嫌じゃないですか?
(中略)
では、友達はどうですか?お昼ご飯を一人で食べたくないから友だちが欲しいのなら、誰でもよくなりませんか?
(p86)
ただ寂しさを埋めるためだけでなく、よりよい「おみやげ」を渡すにはどうすればいいのか、それを考えることで代替可能な人間から抜け出せる可能性がある。おみやげとは人間関係におけるコモディティ人材から抜け出すための武器だ。瀧本哲史は『僕は君たちに武器を配りたい』のなかでコモディティ人材から抜け出す必要性を繰り返し説いているが、鴻上尚史もこの相談でおみやげという武器を配っている。
この相談は、人間関係におけるコモディティ人材を抜け出すためのアドバイスだが、逆に友人がコモディティ状態を抜け出したために生じた悩みにも、鴻上尚史は答えている。『ほがらか人生相談』の相談24のさやかさんは、社会人になってから高校時代の友人A子さんから絶交したいと言われてしまった。
「さやかのアドバイスはいつも上から目線で鬱陶しい、人の家の事情を細かく聞いてきて苦痛だった」とA子さんから言われ混乱したさやかさんは、どうすれば鴻上尚史のようないいアドバイスができるのかと相談している。この悩みへの回答のなかで、鴻上尚史はロンドン留学時代の体験について語っている。彼は留学中、あまり英語が話せずクラスの中で孤立していたが、その時にこんな経験をしている。
そんな中、クラスメイトであるイギリス人男性が時々、話しかけてくれました。
ですが、彼には「かわいそうなアジア人をなぐさめている」という雰囲気がありました。イギリスの中流階級出身の人間として、クラスで唯一のアジア人を心配しているという匂いでした。
(中略)
でもね、それでも、話しかけられることは嬉しかったのです。寂しさが紛れるから、たとえ、見下されていると感じていても、独りポツンと中庭のベンチにいる僕に声をかけてくれることは嬉しかったのです。
これは、強烈な体験でした。あきらかに「かわいそう」と見下されている相手からでも、話しかけられると嬉しいという感覚。生まれて初めて経験する、予想もつかない感覚でした。
(p209)
英語がうまく話せず、コミュニケーションがうまく取れない状態だと、「なぐさめの対象になる」くらいのおみやげしか渡せない。この状況下では、見下されながらでも話しかけられると人は嬉しいと感じてしまう。これがコモディティ人材の悲しさだ。より良い人間関係は望みようもないので、こういう相手でも必要だと感じてしまう。
そして、鴻上尚史はさやかさんとA子さんの関係性もおそらくこういうものだっただろう、と分析する。
おそらく高校時代のA子さんは、ロンドンの時の僕のように、「見下されていると感じるけれど、話しかけてくれて嬉しい」という状態だったんじゃないかと思います。
そして、高校を卒業し、大学を経験し、社会人になって、対等に話してくれる人とA子さんは出会ったのでしょう。自分のことを不幸な家庭の出身で「かわいそう」だと思わない、アドバイスをしないといけないと思わない、身構えない人と知り合ったのでしょう。
だから、もうさやかさんと話したくないと感じたのだと思います。それを二人で夕食を食べながら確認したのです。
(p210)
この分析が正しければ、A子さんは「対等に話してくれる友人」というバトナを獲得したので、さやかさんとの付き合いを続ける必要がなくなったということになる。コモディティ人材を脱すれば、人は望まないつき合いをしなくてもよくなるということだ。
あるいは、A子さんにそのような友人がいなくても、さやかさんと付き合うくらいなら一人を選ぶことにしたとも考えられる。時を経てそれくらい精神的に強くなったのかもしれない。いずれにせよ、さやかさんの一方的なアドバイスを聞き入れるしかなかった 高校時代より、よい未来を選び取ることができるようになったといえる。
つき合っている相手がコモディティ人材の状態だと、人はつい相手を舐めてしまいがちだ。相手が自分とつき合うしかないことを知っていると、傲慢な態度にも出られてしまう。しかし、相手がいつまでもコモディティ状態に甘んじているとは限らない。こちらが有利だからといっていつまでも同じ態度で接していると、いずれコモディティ状態を脱した相手から強烈なしっぺ返しを食らうこともある、という教訓を、この相談からは学べるのかもしれない。三日会わざれば刮目して相対すべきなのは、男子でも女子でも同じことなのだ。