明晰夢工房

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【感想】内山昭一『昆虫は美味い!』

 

昆虫は美味い! (新潮新書)

昆虫は美味い! (新潮新書)

 

 

昆虫食といえばこの人、内山昭一氏による昆虫食の雑学本。

わざわざ食べる人がいるからには、昆虫食はきっと美味いのだろう、とは思う。

でも、第一部のカメムシは本当にパクチーの香りがするのか」「カマキリは卵がうまい」「オオゴキブリは美味しい」などのタイトルを見ているだけで、もうくじけそうになっている自分がいる。いくらうまいんだと言われても、これらの虫の絵面がどうしても食欲を阻害してしまう。

なんとか食べられそうなのはバッタくらいだろうか。よく言われることだが、この本でもやはりバッタはエビの味がすると書いてある。アイマスクをした状態で食べると、8名中2名はどちらがバッタかエビかわからないらしい。ただしこれは粉末状にした場合での比較である。『甘々と稲妻』でもつむぎがバッタを食べているシーンがあったが、子供が食べられる昆虫はこのあたりが限界な気がする……のだが、著者が作ったさまざまな昆虫料理を子供たちが喜んで食べていることも報告されていて、やはり若い方が新しい食文化への適応も早いのかと感心させられる。

 

著者の内山昭一氏の探求心の強さは尋常ではない。とにかく昆虫と見れば食べなくては気がすまないのだ。その結果、カブトムシの幼虫はものすごくまずいことも発見している。未消化の腐葉土が体内に詰まっているので、腐葉土の味しかしないのだ。成虫の味も大体そんなところだそうである。

つまり、昆虫はおおむね食べたもので味が決まるらしい。だから、クリを食べているクリムシの幼虫はやっぱり栗の味がするのである(ならバッタとエビは食べているものがぜんぜん違うはずだが、なぜ味が似ているのだろう)。それにしても、この本のクリムシご飯の写真もとても食欲をそそるようなものではない。何度も美味いと言われているのに、なぜ昆虫食は食べる気がしないのだろうか?

 

この本の第二部によれば、それは人間が雑食動物であることに求められる。雑食動物はその気になればいろいろなものを食べられるが、食べた経験のないものを食べるのには慎重だ。だから「食べず嫌い」が発生する。食べたことのない昆虫には毒があるかもしれない、というリスクを考えてしまうのである。

雑食動物は新しいものを食べるとき、食物新奇性恐怖と食物新奇性嗜好の間をゆれ動く。本人も認めているとおり、内山昭一氏のような人は食物新奇性嗜好がとりわけ強いから、次々と新しい昆虫の味にチャレンジできるのである。

 

また、長い年月を経て人類の間に定着した食文化もまた、昆虫食をためらわせる要因になる。明治に入って「害虫」の概念が生まれ、公衆衛生学が発達するなかで、昆虫はしだいに不潔な存在とみなされるようになっていった。結果、今でも多くの日本人にとり、昆虫食は抵抗を感じるものとなっている。

だが、歴史を見渡すと、人間は多くの昆虫を食べてきたことがわかる。聖書ではバッタ食が認められていたこと、古代中国では君子の食卓にも蝉が登場していたことなどがこの本では紹介されているが、種類を限れば昆虫食はあんがい人間には身近なものでもあった。

 

そんな昆虫食が、いま世界的に注目を浴びているという。国連食糧農業機関(FAO)が2013年の報告書で、家畜の代わりに昆虫食の利用が急務と発表したからだ。この報告書によれば昆虫は飼育変換効率がよい、温室効果ガスの放出量が少ない、有機廃棄物で飼育できるなどの理由で家畜を育てるより環境的優位性があるのだそうで、この発表をきっかけに著者への取材も増えているとのことだった。

つまり昆虫は家畜よりエコな食べ物であり、環境と調和しつつ必要な栄養を摂るには、近い将来昆虫を食べなくてはいけなくなるかもしれないということである。この本の第二部では「サバイバルとしての昆虫食」に言及していて、松本零士が空襲警報が鳴ったときに山へ入って蜂の子を食べていたエピソードを紹介している。

これは個人レベルのサバイバルだが、いずれ人類全体が生きのびるために昆虫食を常食とする時だってくるのかもしれない。その時までに、人類は昆虫食に慣れることができるだろうか。この本で紹介されている「アリの子ジャム」「コオロギスナック」「タガメ香料入りサイダー」などなどの字面を見ているだけでも無理じゃないか、と思えてくるのだが、これらの料理を食べることで子供たちの昆虫食への考えはかなり変わったという。著者が引用しているマーヴィン・ハリスの言葉のとおり、「わたしたちが昆虫を食べないのは、昆虫がきたならしく、吐き気をもよおすからではない。そうではなく、わたしたちは昆虫を食べないがゆえに、それはきたならしく、吐き気をもよおすものなのである」ということだろうか。