明晰夢工房

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【感想】鴻上尚史『孤独と不安のレッスン』に「ほがらか人生相談」の原点を見た

 

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

孤独と不安のレッスン (だいわ文庫)

 

 

この本を読んでいて、ファストフード店で一人で食事している男性を撮影し、SNSに晒して笑いものにしていた女子大生のことを思い出した。そこまですると、さすがに晒している方が非難される。しかし、独りでいるのは恥ずかしいことだ、と思っている人は多い。なぜ孤独はみじめなのか。鴻上尚史に言わせれば、それは「友達100人至上主義」のせいなのだ。

 

この歌の一番の問題は「友達が多いことは無条件でよいこと。友達が一人もいないことは、無条件で悪いこと」という価値観をわずか5,6歳の子どもに刷り込んでいることです。

友達の大切さと難しさを歌うのならともかく、ただ「友達100人」を歌い上げるのは、あまりにも能天気で罪深いことです。

そして、大人達は、1年生に向かって、何の疑問もなく、「友達できた?」と聞きます。その質問の繰り返しが、子供達に「友達ができないことは、間違ったこと」という価値観を刷り込むのです。

結果、学校でも家庭でも、「友達の多いのはいいこと」「友達のいない人は淋しくてみじめで問題のある人」という価値観が、なんの問題もなく流通していくのです。 

 

こういう価値観の源流は、共同体の掟から外れると村八分にあう江戸時代の村落にあり、この相互監視状況が多少ゆるやかになった「中途半端に壊れた共同体」=世間にわれわれ日本人は生きているのだ、とこの本では説かれている。鴻上尚史を読んでいる人にはおなじみの「世間論」だ。この「世間」の話は「神回答」で有名な「ほがらか人生相談」のなかにも何度か出てくる。親が周囲の目を気にしてうつ病の妹を病院に行かせないなど、「世間」そのものが敵になるような悩みがよく寄せられるからだ。

 

saavedra.hatenablog.com

 

一人はみじめだという価値観を脱するには、一度「本物の孤独」を体験しなくてはならない、というのがこの本の前半の主張だ。そのために、鴻上尚史は一週間以上の一人旅に出ることをすすめている。一人でいることが恥ずかしくない状況に長い間自分を置けば、自分の深い部分と対話ができ、豊かな「本物の孤独」の価値を知ることができるからだ。

 

人は一人でいるときに成長する、と本書ではくり返し説かれる。孤独な時しか人は自分と向き合えないからだ。さびしさを埋めるためだけに友人をつくるのはむなしい、それよりも「一人はみじめだ」という思い込みをなくすことが大事。そうすれば一人でいても辛くはなくなる──というこの考えは、確かに納得できるものではある。

 

でも、私はこの考えに全面的には賛成できない。確かに一人は悪いことでもないし、恥ずかしいことでもない。しかし多くの場合、孤独はつらいものではないだろうか。「一人は恥ずかしいものだ」という考えをアンインストールできればこのつらさがなくなるかというと、そう単純なものではないように思う。

内面化された「世間」の縛りを外すことができれば、多少楽にはなるだろう。その効用は否定しないし、「友達100人至上主義」の害を並べるのもいい。だが、孤独を恐れるのは、そもそも人間の本能ではないだろうか。人は結局社会的動物であって、多くの人は一人では心の穴が埋まらない。孤独が長びくことで、確実に心身にダメージも出てくる。

私は大学生のころ、いちど留年してしまったため周囲に知人がほとんどいなくなり、卒論に専念していた頃はほぼ完全な孤独状態に置かれたことがある。このときはかなり精神が不安定で、一度はある新興宗教の入口まで行きかけたこともある。孤独な時間は豊かである反面、人を壊してしまう可能性もあるのではないだろうか。鴻上尚史はさびしさを埋めるためだけの人間関係には否定的だが、あの頃私が上っ面だけの人間関係だけでも持っていたなら、そこまで精神定期に追いつめられることはなかったように思う。

 

『ほがらか人生相談』の内容を見てみると、鴻上尚史の孤独についての考えはかなり進化しているように思える。「学校のグループ内で私は最下層扱い。本当の友達が欲しいです」という相談に対して、鴻上尚史「友達のふりをする苦痛」と「ひとりのみじめさ」を天秤にかけ、どちらがよいかをじっくり考えてみましょう、とアドバイスしている。一人は恥ずかしくないからそんな居心地の悪いグループなんて抜けてしまいましょう、という単純さはここにはない。

日本の「中途半端に壊れた世間」のなかに生きるなら、独りでいるのはやはりつらい。かといって、淋しさを埋めるためだけにこちらを都合よく扱うグループに所属するのも苦しい。この状況を抜け出すためのアドバイスが、自分にはどんな「おみやげ」を渡せるのかを考えることだ、と鴻上尚史は説いている。

 

 僕は人間関係は「おみやげ」を渡し合う関係が理想だと思っています。
「おみやげ」っていうのは、あなたにとってプラスになるものです。楽しい話でもいいし、相手の知らない情報でもいいし、お弁当のおすそ分けでもいいし、優しい言葉でもいいし、マンガやDVDを貸してあげるのでもいいし、勉強を教えてもいいし。
(中略)
そして、恋愛も友情も、どちらかが「おみやげ」を受け取るだけで、何も返さなくなったら、その関係は終わるだろうと思っているのです。
(p90) 

 

ここまで具体的なアドバイスは、『孤独と不安のレッスン』の中にはない。この本では基本的に孤独を豊かでよいものと定義しているので、そこから抜け出そうという姿勢はないのだ。この本のスタンスは「一人でいてもいい」とあなたが思えればそれですむことですよ、だ。このスタンスが「おみやげを探しましょう」に変わったのはなぜか。そのヒントが、こちらの文章に書かれていた。

 

www.huffingtonpost.jp

 

そうなると、瞬発的にアドバイスしなければいけない。しかも、「気の持ちようだよ」とか「考えすぎだよ」とか、ましてや「がんばれ」などと抽象的なことを言っても役者の気持ちは晴れない。抽象的なアドバイスは余裕がある時しか成立しないんです。

そこでどうしていたかというと、とにかく具体的で即実行可能なことを言ってあげる、ということ。例えば、「あの人と上手くやれない」といった時には、じゃあ、まずは明日その人に会った時に大きな声で「おはようございます」って言ってみませんか? とか、あの人はブドウが好きだから、差し入れてみたら? とか、ですよね。とにかく、ほんのちょっとした、具体的なことを伝える。 

 

「一人でも恥ずかしくないと思えばいい」というのはある意味「気の持ちよう」みたいなアドバイスだ。今困っている人にすぐ役立つわけではない。相談者が陥っているのがこの本でいう「ニセモノの孤独」だったとしても、具体的に役立つ助言ができなくてはいけない。そこで、あなたが手渡せる「おみやげ」は何ですか、という話をすることになったのだろう。価値観を変えて悩みに対処するやり方は漢方薬みたいなもので、即効性のあるものではない。

 

『孤独と不安のレッスン』の後半では、他者とは基本的にわかりあえないものだ、という考えが何度も示される。だからコミュニケーションをあきらめろというのではなく、わかりあえないからこそ徹底的に話さなくてはいけないのだ、と鴻上尚史は説く。彼は国際結婚した人の「結婚で大切なのは、気持ちよりも理解。愛情よりも情報」という言葉を紹介しつつ、実はすべての他者との付き合いにはこういう姿勢が必要なのだと主張している。「ほがらか人生相談」での鴻上尚史の語りがとにかく丁寧なのも、相談者が基本的に「わかりあえない他者」だという前提があり、そんな相手にも言葉を届かせるにはどうすればいいか、をつねに考えているせいなのかもしれない。