明晰夢工房

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【感想】テッド・チャン『息吹』をSFに苦手意識のある私が読んでみた結果

 

息吹

息吹

 

 

テッド・チャン『息吹』は発売直後から絶賛されているが、私みたいにSFが得意とはいえない読者にもちゃんと読めるのだろうか?と気になっていた。海外SFを読んでいると何か格好がつきそうだという見栄はあるものの、私は科学に弱くて、SFには多少苦手意識がある。具体的には以下のような感じ。

 

・ふだん読む小説は歴史時代小説・ファンタジーが中心

・SF遍歴は小川一水山本弘、ケン・リュウ上田 早夕里、ダン・シモンズなどをそれぞれ数冊読んだ程度

・物理や化学は苦手

・生物学や進化論には多少興味があるが、よくわからない

・イーガン作品や三体は挫折した

伊藤計劃作品も挫折した

・『オブリビオン』『楽園追放』みたいな映画は好き

・お気に入りのSF小説は『オリンポスの郵便ポスト(ラノベ)』

 

というわけで、SF読みとしては相当浅い。こういう人でも楽しめるなら、『息吹』はかなり広い範囲の人にも楽しめるのではないかと思うので、ひととおり読んでみることにした。なお、私は『あなたの人生の物語』は読んでいない。

それでは以下、短編ごとに寸評を書いていく。

 

・商人と錬金術師の門

 

中世のバグダッドを舞台に展開する物語。主人公が錬金術師に紹介された、20年後の未来と過去を行き来できる門が物語の鍵となっている。錬金術師が主人公に教えてくれた「幸福な縄ないの物語」「自分自身から盗んだ織工の物語」「妻とその愛人の物語」はそれぞれ寓話の雰囲気を持つ話だが、どれも過去と未来が互いに影響し合う巧みなストーリーで独立した小説としても楽しめる。彼らが見聞きした未来は必ずしも今の自分が望んだ未来ではないのだが、それでも未来はそうなるべくしてなっている、という深い理解を彼らは得ることになる。3つの不思議なストーリーを味わったのち、主人公は過去に旅立つことになる。

実はこの話における「門」は過去と未来を行き来できるが、過去や未来を変えることはできない。主人公は不幸な過去を持ちトラウマを負っているが、この過去自体は変えることができないのだ。では、主人公はなんのために過去へ旅立つのか。それは、過去の受け止め方を変えるためだ。20年前に旅立った主人公が過去で行ったことは、読む者の胸に深い余韻を残す。SFというよりはすこしふしぎテイストの強い話だが、楽しんで読んでいるうちに最後は人生いかに生くべきか、後悔せずに生きるには、という深いテーマにまで導いてくれる名作だった。これならSFが苦手な人でも楽しめるだろう。

 

・息吹

 

毎日空気を満たした二個の肺を交換しつつ生きるロボットが、ある出来事をきっかけに自らの脳を解剖し、はては世界の秘密をも知ってしまうというストーリー。ロボット世界の解剖学における「銘刻仮説」(=個人の経験が金箔シートに刻まれているというもの)をおもしろく感じるものの、私が機械に弱いのでこのストーリーを十分に楽しめていない可能性はある。この世界における空気が機械に及ぼす影響が、今ひとつ飲みこめていないからだ。

とはいえ、このストーリーで明らかになる世界のしくみそのものは興味深いもので、SF好きな人はこういうところにセンスオブワンダーというのを感じるのかな、と思うところではある。こうして一つの完成された世界を作れるチャンの想像力には驚かされる。広い宇宙のどこかにはこんな文明だってあるかもしれず、いずれこの物語のように誰かに発見されるのを待っているかもしれない。表題作にふさわしい、SFらしいSFだった。

 

・予期される未来

 

「負の時間遅延」を起こす回路を搭載した「予言機」の発明により、自由意志が存在しないことがわかってしまった未来の話。この機械を前にすると、人はどうやってもライトが光る前にボタンを押すことができない。どんなに工夫しても予言機の裏をかくことができないと知った人間はどうなるのか。この作品のように、「無動無言症」を発症してしまうだろうか。最先端の脳科学では自由意志は存在せず、自由否定しかないといわれていると聞いたことがあるが、私はそんなものか、と思った程度だった。

正直、自由意志が存在しないと判明したとしても、人間のすることがそれほど変わるとは思えない。とはいえ、本作の「予言機」のようなもので自由意志を明らかに否定されてしまうと、やはりショックを受ける人も多いだろうか。私がこの作品を読んでいるのも、あらかじめ決まっていたことなのか。掌編ではあるものの、いろいろなことを考えさせられた。

 

・ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル

 

全9編中最も長いストーリー。タイトル通り、「ディジエント」という人工知能を搭載したデジタルペットのライフサイクルを語っているストーリーなのだが、ディジェンドと長くかかわっていくうち、人々がディジエントを実在の生物と同じように扱うようになっていくのがおもしろい。ディジエントの開発には元動物園トレーナーのアナもかかわっているせいか、その挙動は人間の予想をはるかに超えていて、わがままになりすぎてユーザーの手を焼くこともある。ディジエントたちは自ら学習し、成長して仮想世界に独自の生態系を築いていくのだが、読者は神の視点から進化の過程を眺めているかのような気分にさせられる。

やがて、初期のディジエントである「ニューロブラスト系ディジエント」をどうやってリアルスペースに移行させるかという問題が発生する。その資金を獲得するためにアナたちは頭を悩ませるが、ある企業がディジエントの非独占的使用権とひきかえに、ニューロブラストのリアルスペース移植の資金を負担すると申し出てくる。渡りに船と思えるが、問題はディジエントの使用目的だ。ディジエントへの思い入れが深い者ほど、この使い方には倫理的葛藤を感じるだろう。この悩みは滑稽なものとは決していえない。ユヴァル・ノア・ハラリが指摘するとおり、国家や貨幣など虚構の存在の上に人類は発展してきたのだ。アナやその友人のデレクがディジエントの未来をわが子のように心配するのは、きわめて人間的な行為だ。

苦悩した末、デレクの下した決断は果たして正しかったのかどうか。おそらく多くの読者はアナやデレク同様、ディジエントを独立した人格とみなしているだろう。人間同様にドラマを楽しみ、ダンスを踊り、ときには仲間同士で喧嘩もするディジエントであれば、その「意志」も人間同様に尊重するべきなのか。人間味を感じるAIをどう扱うべきなのか、という鋭い問いを突きつけたまま、物語は終わっている。訳者の大森望はこの作品を読んでラブプラスを思い出したと書いているが、愛花やネネさんがこの作品のようなラストを迎えたら、世のカレシ達はデレクを絶対に許さないのではないだろうか。カノジョもディジエント同様仮想の存在でしかなくとも、人がそれらに抱く愛情は間違いなく本物なのだ。

 

・デイシー式全自動ナニー

 

 ナニーとは乳母のことで、乳母ロボット(全自動ナニー)を開発し、これに理想の教育を託した数学者レジナルドと、その息子ライオネルの二代にわたる物語にが本作になる。レジナルドは今までに雇った人間のナニーが信用できないと判断し、自らが開発した全自動ナニーこそが感情に左右されず理想の育児を行えるマシンだという信念のもと、この機械を大々的に販売した。だが、やがてレジナルドは大きな挫折を経験することになる。

息子のライオネルは父の無念を晴らすため、全自動ナニーの有効性を証明しようと養子エドマンドをこのマシンで育てることになる。だが、エドマンドが二歳になり、そろそろ人間に育ててもらおうとライオネルが判断したタイミングで、エドマンドは医師にある判断を下されてしまう。やはり機械に人間を育てさせるなど間違っていたのか?読みすすめていくと、読者は意外な結末にたどりつく。正しい育児とはどういうものか、我々は先入観で勝手に判断してしまっていないか。そんなことを考えさせられる。全自動ナニーの描写はレトロSF風で、全体としてどこか懐かしさを感じる作品だった。

 

・偽りのない事実、偽りのない気持ち

 

「リメン」という生活記録(ライフログ)を映像で記録できるガジェットが、人間に与える影響力をテーマとした作品。リメンを装着していれば、言葉や思いに反応してリメンがすぐに過去の記録を動画で再生してくれる。これを使えば記憶違いは一切起こらなくなるので、とても便利だ。実際、主人公はある夫婦間のトラブルがリメンのおかげで部分的に解決するのを目撃する。

だが、主人公はリメンのもたらすマイナス面が気になる。人は主観的な記憶によってセルフイメージを成り立たせている。この自分は過去の記憶の総体ではなく、主観でゆがめられた記憶をつないでできた、いわば物語によって成り立っている。リメンがこの物語を崩壊させてしまわないか、が気になるのだ。ほかにも気になる点がある。主人公は娘の二コルと激しく言い争った過去があるが、ライフログを再生することでそういう嫌な記憶が薄れることが妨げられないか。人は過去を忘れるからこそ、人を許せるのではないのか。

この問題と向き合うため、主人公はリメンを使って過去の自分と向き合うことになる。ここで、いかに記憶があてにならないかという事実がわかってしまう。見つめたくなかった自分自身とも出会ってしまう。記憶と異なる事実と直面し、主人公はどうふるまうのか、がこの作品の読みどころの一つだが、この結末には多少の苦さも残る。だが、過去と誠実に向きあうのは無駄ではないという希望も見える。リメンは万能の利器でもないが、人の価値をおびやかす凶器でもない。月並みな言い方だが、結局テクノロジーの価値はそれを用いる人間次第なのだ。

このストーリーは、アフリカのティヴ族の物語と交差する形で進んでいく。文字を知らなかったティヴ族がヨーロッパの伝道師に文字を教えられ、部族社会がどう変化していくかが書かれているのだが、無文字社会にとっての文字は、主人公にとってのリメンと同じくらいの高度なテクノロジーだ。客観的な記録を残すことを知れば、人はもう記録のなかった時代に戻ることはできない。ごまかしのきかない過去と人はどう向き合うべきか、という問いを、この作品は投げかけている。

 

・大いなる沈黙

 

笑ってしまったのでユーモアSFなのだろうか。高度な知的生命体は人類の意外に近くに存在していた……という話なのだが、この生き物の名前の由来がまさかそんなところにあるとは。日本人にとってはある意味なじみ深い響きではあるけれども……「フェルミパラドックス」という言葉はこの作品ではじめて知った。

 

・オムファロス

 

成長輪のない木だとか臍のないミイラだとか、神が世界を創造した証拠らしきものが見つかる地球での話。考古学者の主人公は天動説を信じているが、ふとしたきっかけからエリダヌス座58番星という天体の動きについての論文を読むことになり、この世界の真実に気づいてしまう……というもの。この真実は天動説や創造論を信じるものなら膝から崩れ落ちるようなものだ。落胆する主人公には正直同情してしまうが、論文中で天文学者が人類の存在についてどうにか説明しようとあれこれ理屈をひねり出しているのには苦笑する。3番目の説を捨てたのは天文学者としての良心か。神を信じない私だから笑っていられるものの、ガチの創造論者はこれをどう読むのかと気になってしまった。

 

・ 不安は自由のめまい

 

 みんな大好き、並行世界を扱った話。別の世界線(この作品では時間線とよばれている)との通信を可能にする機器「プリズム」を多くの人が使うようになった世界での話だが、プリズムが多くの人の心にポジティブ・ネガティブ双方の影響を与える様子が事細かに描かれている。新技術が人や社会に不可逆的な変化をもたらすという意味では「偽りのない事実、偽りのない気持ち」とも共通するテーマをもっているが、リメンよりプリズムの与える影響のほうが深刻ではないだろうか。なにしろ、こちらの自分がおこなっていない悪行、ときには犯罪を、別の時間線の自分がやっている可能性を知ることになってしまうのだから。

この物語にはさまざまな人物が登場し、別の時間線で成功している自分自身に嫉妬したり、あるいはふだんならやりそうにもない大胆な行動を自分がしているのを知って驚いたりしているのだが、どんな分岐であれ「あれは自分ではない」と言い逃れできないところがプリズムの厄介なところだ。「この自分」はそれをしていないとしても、ほんの少し何かがずれればやってしまう可能性があるということを知ると、人々は不安になる。今この自分が分岐先での悪行をしていないのは、ただの偶然にすぎない。

かと思えば、パラセルフ(分岐先の自分)の多くが悪行をしていないことを知り、安心する人物もいる。粗暴な上司のタイヤをパンクさせてしまって後悔しているホルヘのように、他のパラセルフがそんなことをしていないことを知って心が安定することもある。今の自分は例外的なのだ、と考えられるのだ。このように、プリズムは多くの人の自己認識に多大な影響を与える。その影響はプラスマイナスどちらが大きいか、一概にはいえない。

ところで、本作の結末のようなことが起きたなら、人は今生きている人生を運命だと受け入れることができるだろうか。できるとすれば、それはプリズムを使うことのひとつのメリットだとはいえる。だが、私はやはりこんなものはないほうがいいのではないか、という印象を強く持つ。自分自身のありえた人生を知っても、その人生を生きることはできないのだから。

 

というわけで、『息吹』のなかの9作品についてそれぞれ紹介してきたが、理系や科学の知識に乏しい私でも意味がわからない話というのは一編もなかった。正直に言うと、『オムファロス』だけは一度読んだだけでは意味がわからず、感想を検索してから内容を把握したのだが、ていねいに読めばわかっていたはずの内容だった。なので、未来技術や仮想現実なんて考えるだけでも虫唾が走る、という人でもない限り、本作は大いに楽しめるのではないかと思う。SFアレルギーがあるという人でも、『商人と錬金術師の門』なら楽しめるはずだ。とはいえ、『息吹』は単に楽しいというだけの作品ではない。難解な作品群では決してないが、気軽に読めるエンターテイメントとも違うからだ。

 

『息吹』全体を通して、いつもは歴史時代小説を主に読んでいる私としては、「脳の違う部位を使っている」という感じがあった。歴史時代小説は、ある決まった時代状況の中でどうストーリーを作るかに著者は意を砕くので、読者は世界観について頭を悩ます必要はない。だがSFは世界そのものをつくり出すものなので、新しい作品を読むたびに「この世界はどういう世界なのか」を考える必要がある。私があまりSFを読まないせいもあるが、他ジャンルの小説を読んでいるときにくらべて何倍も頭を使って読んでいるという感覚がある。

なので、この『息吹』は、正直読んでいて少し疲れた。だがこの疲れは退屈によるものではなく、知的好奇心を刺激され、あるいは倫理・哲学上の問題を考えさせられるがゆえの心地よい疲れだ。ただのエンタメ作品は脳を気持ちよくマッサージしてくれるだけだが、テッド・チャンの作品はエンターテイメントとしての牽引力も保ちつつ、読者の脳に適度な負荷をかけてくるので、どの作品もただ面白かったで終わることはない。いや、本当におもしろい作品とは、このように読者によく考えることを求め、価値観を揺さぶってくる作品のことをいうのかもしれない。なので『息吹』はSFをあまり読んでいない人には少しだけ苦労を強いるかもしれないが、それをはるかに上まわる充実した読書体験をもたらしてくれる作品集となっている。オバマ元大統領が「最良のSF作品集」と絶賛したのも納得の出来栄えだった。