秋田市の秋田城跡と資料館を訪ねてきた。写真は昨年10月に撮ったもの。
秋田城の歴史は古く、733年に出羽柵が建設され、760年に秋田城と改称されている。
ここには復元された秋田城の城壁含め、当時の政庁そのものが公園の中に含まれている。
秋田城は軍事施設であり、行政機関でもあったといわれるが、この城壁は役所の外壁といった印象が強い。秋田城は蝦夷の饗応の場であったともいわれるが、蝦夷もこの門をくぐっただろうか
壁の向こうの高清水公園は市民の憩いの場となっている
資料館と城壁との間には、政庁のミニチュアが飾られている
この場所には秋田場内を東西につらぬく大路があった。小規模であっても大路というあたり、京文化をこの地に持ち込んだという意識があったということだろうか
秋田城に用いられた瓦。瓦はこの時代、ごく限られた施設にしか使われていない。律令国家の威厳を示すために瓦が用いられたようだが、当時秋田城は日本最北の瓦葺き施設だった
資料館内の展示物は自由に撮影でできる。これは周囲から出土した土器や皿。
近づいてみると細かい破片が一個の土器につなぎ合わされている。学芸員にはパズル職人の能力も必要とされる
古代の秋田は今以上に雪深かったと思われる。スコップの形が今のものとほぼ同じなのは興味深い
秋田城の兵士の鎧(非鉄製小札甲)。平安時代の防具は戦国時代のものとくらべかなりてシンプルに見える。徴兵された民が身につけるものなら、戦国武将のように自己アピールのためには用いられず没個性的なものとなる
この刀は元慶の乱で用いられたものだろうか。秋田城が蝦夷に攻められたのは、飢饉に苛政が重なったせいらしい
秋田城は北方の辺境の城と思われがちだが、実は北海道の蝦夷を通じてオホーツク文化とも交流があり、しかも渤海の使節がここを訪れたとも考えられている。水洗トイレなど古代の最先端技術が用いられているのも、外交使節をもてなすための施設だったからかもしれない
秋田城のトイレからは、豚を食べる人の感染する寄生虫の卵も発見されている。この時代、日本人は豚を食べないので渤海人がここで豚を食べた可能性がある。渤海はツングース系民族の国ともいわれるが、ツングースという言葉はテュルク語の「豚」に由来するという説がある。なお、オホーツク人も豚を飼育していた
資料館側の城壁周辺は広々としていて、散策すると政庁の広さを想像できる。右手に見えるのが政庁のミニチュアの展示
秋田市寺内にある秋田城跡は奈良~平安時代の役所跡なんだよっ。役所跡だからとうぜん書類や木簡がたくさん出土していて、一部は秋田城跡歴史資料館で見ることができるよ。ほかにも土器や瓦、警備の兵士の武具なんかも出土しているんだってpic.twitter.com/ZReEPMO40r
— 矢留アキ@秋田応援キャラクター (@Aki_Yadome) 2019年11月11日
秋田城跡歴史資料館は一般入館が200円。展示はかなり充実しているので、秋田城を訪れたらぜひ立ち寄ってみてほしい。