明晰夢工房

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ジャンル分け不能の怪作『絶対小説(講談社リデビュー賞受賞作)』が小説愛にあふれすぎていて最高だったので感想を書く

 

絶対小説 (講談社タイガ)

絶対小説 (講談社タイガ)

 

 

この小説を何と呼べばいいのだろう。

河童のような人間が出てくるから伝奇か。

いや、謎の肉食植物や四脚駆動のメカが登場するからSFか。

作品全体に漂う不穏な雰囲気はホラーっぽくもあるし、主人公とヒロインのまこととの軽妙なやり取りだけを取り出せばラブコメとも言える。

闇の組織ネオノベルとの駆け引きはサスペンスとも言えるし、作品全体がはらむ謎は一種のミステリでもある。

だが、これらの言葉は結局この『絶対小説』の断片を指すにすぎず、この作品全体を形容する言葉は、ちょっと見つけられそうにない。

『絶対小説』は、『絶対小説』という唯一無二のジャンルだ、としか形容のしようがないのだ。

それくらい、第1回講談社NOVEL DAYSリデビュー小説賞を受賞したこの作品は、様々なジャンルの魅力が溶け合った混沌とした作品に仕上がっている。 

 

これだけ奇妙で一筋縄ではいかない作品だが、この作品の通奏低音は、すがすがしいまでにストレートな小説への、そして創作行為への愛だ。

『絶対小説』の冒頭は、売れないラノベ作家の主人公・兎谷三為と、その先輩で売れっ子作家の金輪際との会話から始まる。

金輪際は、兎谷に百年前の作家、欧山概念の原稿を見せる。それを手にしたものは文豪の才能を宿すと噂される代物だ。だが、二人がこの原稿について言葉を交わすうち、いつのまにか原稿は失われてしまう。

 

その日以来、兎谷の冴えない日常は変わりはじめる。金輪際の妹を名乗る美人女子大生との出会いがあり、いくつもの顏をもつ彼女にふりまわされる日々が続く。どこまで信用していいかわからないヒロインと欧山概念の原稿を追ううち、兎谷の日常はしだいに非日常に飲みこまれてていく。

口調こそ偉そうだが要所要所で助けてくれる金髪ツインテールの占い師・女々都森姫愛子や欧山概念の原稿を狙っている「闇の出版業界人」、そして欧山を絶対の存在としてあがめる「クラスタ」の存在などなど、怪しげな連中が次々に登場し、一時たりとも兎谷に安息の日々を与えてくれない。読者はメメ子こと女々都森の強烈なツッコミに笑ったり、闇の出版業界人の手段を選ばないやり口に唖然としながらも、やがてあることに気づくだろう。それは、この作品の登場人物がみな、強烈に小説を愛しているということだ。

 

ラノベ作家である兎谷や金輪際は言うに及ばず、女々都森姫愛子のようなサブキャラも、この作品でははばかることなく小説への愛を語る。彼女は作家を志していた過去があり、だからこそときに兎谷にもきつく当たる。だが、彼女の言動の背景に小説愛があることがよくわかるので、その厳しさもまた小気味よい。いや彼女だけではない。闇の出版業界人も、クラスタのメンバーも、それぞれ歪んではいるものの、皆それぞれの形で小説を愛している。だからこそ、皆が手にしたものに天才的な才を授ける欧山概念の原稿を欲しがるのだ。欧山の力で人々の目を小説に向けさせ、「文芸復興」をめざすネオノベルの野望は明らかに狂っているのに、一読者としては支持したくもなってしまう。小説への偏愛が語られる世界ほど、活字好きにとって心地いいものはない。

そもそも、小説などを志すような人間は、皆どこか歪んでいるのではないか。現実が生きづらいからこそ、虚構の世界をつくりあげ、そこに人々を引きずりこもうとするのではないか。この作品の悪役ほど極端な形でないにせよ、小説に手を染める人間は何かしらの業を背負っているのだ。闇の出版業界人やクラスタのメンバーは、そのひとつの形にすぎない。金輪際や兎谷は、また別の形の業を背負っている。

本作には、作中作が何度か登場する。金輪際の『多元戦記グラフニール』や、兎谷の『偽勇者の再生譚』などがそうだ。これらの作品が、彼らラノベ作家の業が生みだしたものだ。この二作品はどちらもなかなかおもしろそうで、読んでいるとその全貌を知りたくなってくる。だが、実はこれらの作品にはある仕掛けがある。ネタバレになるので話せないが、最後まで読めばそういうことか、という深い納得と感動が得られるだろう。読者はこれらの作中作の使い方の巧さに舌を巻くとともに、著者の小説への深い思い入れに痺れるに違いない。これはビブリオマニアのための小説なのだ。

 

ラノベといえば、この『絶対小説』も、ある意味とてもラノベっぽい。終始のじゃ口調の女々都森姫愛子の台詞や、闇の出版業界人などの設定はラノベそのものだ。著者の芹沢政信がもともとラノベ出身なので当然といえば当然なのだが、この作品はそのラノベっぽさを逆手に取った作品ともいえる。くわしいことは語れないが、これらの設定がどういう意味を持っているのかを知ったとき、読者はいかにこの作品に深い小説愛が込められているかを理解するだろう。そして、物語構造の巧みさにも驚くに違いない。終盤で事の真相を知ったとき、私はしばらく呆然としてしまった。

それにしても、なぜここまでして、人は小説を生み出そうとするのか。虚構を求めるのか。著者は『絶対小説』の冒頭で、こう書いている。

 

この文章を読んでいる君は、幸福ではないはずだ。

なぜなら小説を読むという行為そのものが、現実から逃避するための、自らの境遇から目を背けんがために行われるものであるからだ。

では幸福を得るために、君は何をするべきだろう?

読むのではなく、書きなさい。

現生から受けた折檻によって醜く腫れあがった己が心を癒すために、ただひたすらに物語を紡ぎ、目に見える世界を虚構の色に染め上げるのだ。

文字の世界に魂を売り渡し、佇立する肉体を記述せよ。

それこそが真なる幸せに至る唯一の道。

すなわち──<絶対小説>である。 

 

ここには、現実とは別の世界を作り出さなくては生きられない者の哀しみが、簡潔に表現されている。小説を書くという行為は、自らを創造主にすることだ。おのが手で望むままにキャラクターを作り、物語を紡ぎ、世界の運命を記述するのはこのうえない悦楽だ。しかし、そもそも虚構を作り出す作業に没頭すること自体、その人が不幸である証拠ではないのか。現実が生きやすいなら、虚構など生み出す必要もないのだから。誰かに作家の才能が宿っているとして、それが発揮されるのは、現実がつらいからなのだ。

 

この『絶対小説』には、売れないラノベ作家である兎谷の口を通じて、ラノベ業界の世知辛い現実も語られている。そのため、この作品はある種の「ラノベ作家もの」としても読むことができる。何度も何度もプロットを練り、出し続けても編集からボツを食らい続ける兎谷の苦労は、おそらく著者自身も経験したものだろう。最近知ったのだが、著者は昨年、noteでこんなエントリを書いている。

 

note.com

 

一度ラノベ作家としてデビューしたものの執筆活動は思うに任せず、どうにかウェブで再起をはかろうとするもののラノベとはまた勝手の違う世界に戸惑う著者の苦悩が伝わってくる。報われる可能性が低いと知りつつ、それでも書き続けようという悲壮なまでの決意がここに綴られている。この雌伏の日々がなければ、『絶対小説』は生まれなかっただろう。それを手にしたものには天才的な才能が宿るという、文豪の原稿。ものを書く苦労を知っているからこそ、『絶対小説』のこのキーアイテムの設定を思いついたのだろうから。

著者の苦悩にははるかに及ばないだろうが、この私だってもっと人の心を揺さぶる文章が書けないものか、と悩むことはある。どれだけ私が熱意を込めて書こうと、ブログなど見向きもされないのが普通だ。この文章にしろ、どれだけ『絶対小説』の魅力を伝えられているか心もとない。そんな苦しみが、ときに傑作を生むことがある。著者のラノベ作家としての苦悩は、講談社リデビュー賞受賞という結果につながり、『絶対小説』という実を結んだ。このような作品を私の手に届けてくれた講談社には拍手を送りたい。講談者が著者に再デビューの機会を与えなければ、この作品が世に出ることもなかったのだから。

 

とはいうものの、一度鳴かず飛ばずの境遇に陥り、再デビューを賭けてこの賞に挑んだものの、なお敗れてしまった作家があまた居ることもまた現実である。ここまで苦しい思いをして、それでも書き続ける理由とは何なのか。この小説の冒頭に書かれているように、やはり生きづらさか。あるいは名誉欲か、お金のためか、それとも意地なのか。それは当人にすらわからないかもしれない。いずれにせよ、作家を志すからには、その人は書かずには生きられないのだ。ただ名誉やお金がほしいだけなら、他にいくらでもそれらを得る手段はあるのだから。

 

saavedra.hatenablog.com

 

『絶対小説』は、不思議なことにその読後感は『先生とそのお布団』にどこか似ている。これもまた、作家という書かずにはいられない生き物の業を描いた作品だ。お断りしておくと、『先生とそのお布団』と、『絶対小説』はまったく違うタイプの小説だ。前者がラノベっぽいガワで包んだ私小説のような作品であるのに対し、『絶対小説』は様々なジャンルの要素を闇鍋的にひとつの作品に盛り込んだ怪作だ。

だが、両者に共通しているのは、報われなかろうが書き続ける、という強い強い小説への執着であり、愛だ。作家になるべく書くという行為は、永遠に山頂に岩を運び続けるシジフォスの苦行にも似ている。『先生とそのお布団』の先生が言うように、それでも書き続けるものは尊い。それができるのは、小説に選ばれたものだけだ。どれだけ良い文章を書く能力があろうと、書くことへの執着を欠くものは作家であり続けることはできない。

 

『絶対小説』は、『先生とそのお布団』とはまた違う形で、小説賛歌をうたいあげている。この作品の登場人物が小説に向ける愛の形は、『先生とそのお布団』よりもどこかいびつで、しかし純粋だ。それゆえに、私のように現実より虚構を愛する者には、この作品は深く刺さるだろう。数多くの試練を経て、最後に主人公がたどりついた欧山概念の真実もまた、読む者の心をえぐる。小説という形でしか、この過酷な現実と切り結ぶすべを知らない人種は存在するのだ。これは、そんな不器用な人々へ向けた、418ページにわたるラブレターだ。これほどまでに奇妙な、しかし熱い小説賛歌を、私はほかに知らない。小説を愛するすべての人に、一読をおすすめしたい。