明晰夢工房

読んだ本の備忘録や日頃思ったこと、感じたことなどなど

「小説にだけあってマンガや映画やアニメにはない魅力」を示せる人ってなかなかいないよね、という話

 小説と同じメリットが漫画にもアニメにもある

小説は君のためにある (ちくまプリマー新書)

小説は君のためにある (ちくまプリマー新書)

 

 

藤谷治さんの『小説は君のためにある』を読みました。

若い読者に向けて、小説の魅力を優しく語りかけてくれる、とてもよい文学案内だと思います。

ただ、私はこの本を読んでいて「藤谷さんほどの人でも、小説ならではの魅力を語ることはむずかしいんだろうか」とも思ってしまいました。

確かにこの本は魅力的だし、小説がどう人生の役に立つのか、ということを、決して押しつけがましくない形で教えてくれる。

小難しい話は一切していないし、小説入門としては最良の部類の本だと思います。

ただ、「小説にしかない魅力」を十分に伝えきれているとは、私には思えなかった。

 

この本の三章で藤谷さんは、小説の役割として、以下の6つをあげています。

 

・その1……人生が増える

・その2……こっそり考える

・その3……現実を見直す

・その4……多様性を知る

・その5……すべての人の「自分」

・その6……陶酔

 

 1は小説を読むのは人生経験だ、という話です。2は読むことで作者と秘密を共有できるという話。3は文字通り虚構から現実を見直したり相対化すことができるということで、4も文字通り、人間の多様性を知ることができるということ。

5は小説の登場人物のすべてが「自分」を持っていると知ることができるということ、読むことで自己中心性を乗り越えられる、的な話。4とも重なる話です。6は作品世界に耽溺する愉しみ。ほぼこれだけのために小説を読む人も多いはずです。

 

これらの小説のメリットについて、まったく異論はありません。まさしくその通り、と思います。

でも一方で、こうも思うのです。これは小説にしかないメリットなのか、と。

いえ、藤谷さんもこれが小説にしかないメリットや役割だ、などとは書いていません。だからこんな突っ込みは筋が通らないかもしれない。

ただ、この小説の役割が他のメディアでも味わえるものなら、より敷居の低い漫画やアニメ、映画などで味わってもよくないですか?と思う人もいるのではないでしょうか。

 

漫画やアニメにも、人生を深く描いたり、物事を別の視点から考えるきっかけをくれる作品はいくらもある。

それこそ「CLANNADは人生」なんて言葉があるように。

私はCLANNADのことはよく知りませんが、フィクションもまた人生経験だという話なら、むしろ絵や音楽がついているアニメや映画のほうがより臨場感をもった「経験」が得られるんじゃないか、とも思うわけです。

アニメや漫画の登場人物にだって多様性はあるし、もちろん作品世界に耽溺することもできる。確かにそこに他者がいると感じることもできる。

では、小説にしかない魅力って、何なのだろうか。

 

「○○は文学」となぜ言うのか

藤谷さんはこの『小説は君のためにある』の中で、アニメやゲームを文学扱いすることに違和感を表明しています。

 

不思議だよ。どうしてあるゲームやアニメを高く評価するのに、「文学」が出てくるのか。

最高のアニメである、優れたゲームである、でいいじゃないか。なんで改めてゲームやアニメをいったん「文学」に取りこんで、それから褒めるのか。

文学というのは、人間の表現手段の一種だ。それ以上でも以下でもない。いちばん古い表現でもなければ、ましてや最高の手段でもない。絵画や造形や、映画やアニメやゲームが、文学という手段よりも上だとか下だとか、そんな比較は意味がないだけでなく、不可能だ。

 

文学ではないものをなぜわざわざ「文学」として評価するかというと、それはおそらくアニメやゲームにも文学同様に人間や世界を深く描き、あたかもひとつの人生を丸ごと体験したかのように感じさせてくれるものがあるのだ、と言いたいからでしょう。

アニメやゲームは文学より軽んじられてきた経緯があるから、これらだって文学に匹敵する価値があるのだ、とも訴えたくなるわけです。藤谷さんは映画やアニメやゲームと文学に優劣などないと書いているけれど、世の中そういう公平な視点を持った人ばかりではない。

藤谷さんが訴える通り、確かにアニメやゲームは(狭義の)文学ではありません。でも、これらの作品も文学同様、こちらの心を揺さぶり、深い感動を与えてくれるものがある。それならやはり、小説の役割をアニメやゲーム、マンガでも果たしうることにならないだろうか。同じことを他の媒体でもできるのなら、わざわざ小説を読むメリットは何なのか?この問いに答えるのは、そう簡単ではないと思います。

 

自分なりに考えた「小説ならではの魅力」

 

saavedra.hatenablog.com

saavedra.hatenablog.com

 

過去エントリを読み返したら、去年こういうものを書いていました。この二つのエントリで、私は小説の強みは「ビジュアルが決まらないこと」だと書いています。小説は文字しかないから、登場人物や作中世界の風景を脳内で好きに想像していい。ビジュアルが決められているラノベはまた別ですが、少ない情報量から想像の翼をひろげられるのが小説を読む愉しみのひとつです。 

 

 

この〈神々の森〉を、キャトリンはどうしても好きになれなかった。

彼女はずっと南の、三又鉾(トライデント)河の赤の支流(レッド・フォーク)のほとり、リヴァーラン城のタリー家に生まれた。

そちらの〈神々の森〉は明るくて風通しのよい庭園のようなところで、赤い赤木(レッドウッド)が小川のせせらぎの上にまばらな影を広げ、小鳥たちの人目につかない巣から歌声が聞こえ、空気は花々のかぐわしい香りに満ちていた。

(中略)

ここの森には灰緑色の針状葉で武装した頑強な哨兵の木(センチネル・ツリー)や、オークの大木や、国土そのものと同じくらい古い鉄木(アイアンウッド)が生えていた。

黒くて太い木が密生し、枝が絡み合って頭上に厚い天蓋を作り、地中では歪んだ根がもつれあっていた。ここは、深い静寂と、のしかかる影の場所であり、ここに住む神々には名前がなかった。

(p43)

 

たとえば『七王国の玉座』のこういう文章を読んで、いろいろと空想してみたいわけです。ルビがたくさんふってある海外文学っていいですよね。哨兵の木とか三又鉾河とか、独自用語が出てくるファンタジーはやっぱりいい。どういうものだかわからないだけに、頭の中に好きに絵を描ける。

 

ファンタジーやホラーは、下手に映像化されるととても安っぽいものになります。ホラーは読者が勝手に想像をふくらませるからこそ怖い、というところもある。私には『荒神』のドラマ版のつちみかど様はあまり怖く感じませんでした。あれ、目がないんじゃなかったの?いや、仮に目がなくても、映像化した時点で怖さは何割が薄れてしまうかもしれません。こちらが想像する余地がなくなってしまうのだから。

 

とはいっても、こういう楽しみ方をする人ってそんなに多くないことも確かなんですよね。文字だけのストーリーを読むのはやっぱり敷居が高いし、私だって疲れてるときは小説なんて読めない。そういえば、なろう小説はコミカライズは売れてるのに原作は打ち切りになる、なんてこともあるそうです。ストーリーが一緒なら、そりゃ普通はマンガ読むよね。なろう小説は基本「快」を求めて読むものだし、マンガのほうがより快楽を与えられるし。

 

小説の魅力はわかりにくい

小説はビジュアルを自由に想像していいからいいんですよ、と何度か書いてきたわけですが、そういう小説の魅力ってどうも地味というか、わかりにくい。「小説にしかない魅力」は確かにあると思うんだけれども、多くの人にアピールできるものでもないんですよね。だから、こういう風にも言われてしまう。

 

togetter.com

 

小説や漫画、アニメや映画などの表現手段に優劣はありません。ただ、大衆にアピールする力の差は確かに、ある。そして、これらの中では小説が一番手に取る敷居が高い。なろう小説は軽く扱われがちだけれども、文字だけの物語をどうにか手に取ってもらうため、わかりやすいご褒美をタイトルで示すという生き残り戦略をとっているのではないか。

  

まんが パレスチナ問題 (講談社現代新書)

まんが パレスチナ問題 (講談社現代新書)

 

 

もう今の世の中、本を読む人自体があまりいないし、小説を読む人なんてもっとマイノリティなんでしょうね。文字しかない物語をわざわざ読む変わり者。 そんな変わり者がなぜ一定数存在するかというと、究極的には文章が好きだから、としか言いようがないかもしれません。でもそんな私ですら、文章だけの本っていくら何でもストイックすぎるよな、と感じることもあります。

先日、『まんがパレスチナ問題』を読んだときは、もうこれくらいイラスト多めにしないと本なんて読まれないよなぁ、と思ってしまいました。やっぱり絵がある方が何事も理解が早いし、何より読んでて楽しい。このブログだっていつ漫画ブログに転向するかわかったもんじゃありません。小説の良さを訴えるのは自分が書く側だからで、つまりはポジショントークでもあるわけだから、将来書く側でなくなったらどうなるかな……まぁ、小説をまったく読まなくなることはないと思いますが、最優先でなくなる可能性はあります。

 

もっと身も蓋もない「小説を読むメリット」

それでも小説を読み続けているのは、おそらくは惰性。活字で物語を味わうのに慣れているから。人は習慣化すれば大抵のことはやれるものです。ただ、突き詰めて考えれば、もっと他の理由もあるのかなと。

藤谷さんは文学も漫画もアニメもゲームも優劣はないと書いてるんですけど、それでもまだ多少は文学のほうが「えらそう」なんですよね。同じフィクションなら、小説のほうが他の娯楽より若干知的に見える。そんな動機もなくはないかもしれない。別にそれが悪いという気はありません。文学は教養として読まなければいけないものだ、と思わなければ私は三島由紀夫ドストエフスキーを手に取ることはなかっただろうし、そんな動機で読んでも得られるものはたくさんありました。人は見栄で小説を読んでもかまわない。

 

saavedra.hatenablog.com

 

ただ、そういう「がんばってする読書」って何歳までできるものなんだ、とも思うわけです。もう見栄を張るような年でもないし、ひたすら自分が読んでて楽しい漫画だけ読んでてもいいのかもしれない。実のところ、私にとって『息吹』は、けっこう頑張って読んだ本でした。こういうものを読んでいれば少しは格好もつくかな、という気持ちもまだ残っているわけです。でも頑張ってレビュー書いたところでみんな有名なSF読みの人の記事しか読まないだろうし、こんなことしてもしょうがないかな、という気持ちも強くなってきています。

 

文学や小説の権威性が一切はぎとられた世界があるとして、それでも私は小説を読むのだろうか。読まないことはないだろうけど、読む数は確実に減るような気がします。単に娯楽性だけで判断したら、小説は他のフィクションに勝てるだろうか。これ、小説でしか書けない話だよなぁ、と言えるものにはそうそう出会えません。だからこそ、『絶対小説』みたいな作品には迷わず食いついてしまうのだけれども。

 

saavedra.hatenablog.com